風邪をひいたようだから見舞ってやってはどうか、といういちばん大事な主語を欠いた河上からのメールは歪曲された心遣いか何かなのだろうかと来島は訝らぬわけではなかったが、そんなものは主語などなくともすぐに思い至った病人への心配に比べたら些細なものだった。すぐに馴れた手順で高杉へメールを送る。そわそわと気の休まらない10分間を味わったところで携帯が鳴った。返信の内容を確認すると、クリーニングから戻ってきたばかりの赤いコートをひっつかんで家を出た。

 何か必要なものはありますかというメールに返ってきたのは高杉がたまに読んでいる週刊誌ひとつだけだったが、買い物カゴの中には風邪薬やポカリの粉、栄養ドリンク、アイスクリーム、ビターチョコレートなど思いつくかぎりのものを入れた。体調はそれほど悪いわけではないようなので、安心した。食材の類はお粥を作るぐらいの材料ならあちらにあるようなので、ありがたく使わせてもらうことにする。最後に、ご丁寧に本日発売と書かれたタグの上に乗せられた週刊誌を手に取った。高杉が一人暮らしをする地区へ向かうバスがくるには少し余裕があったので、他に買い忘れたものはないだろうかとカゴの中身と部屋についてからの行動をひとつひとつ確かめる。見舞いに行くというのに、不謹慎ながらも心地よい歓喜が胸の内でぷくぷくと膨らんでいく。しかし、そのシュミレーション作業は、ひとつの声でぱちんと弾けた。
「来島ちゃんじゃん」
 弾けた勢いそのままに反射的に振り返ると、まず目についたのは雪うさぎのような銀髪。制服以外の姿をみるのは初めてだった。服装は変われど、気だるい目つきに覇気のない姿は平生と変わらない。袋を提げているところをみると、レジを済ませて帰るところだったのだろう。雑誌が置いてあるこの場所はレジと出入り口に近い。
「んな、変質者と会った、みたいな反応やめてくんない。傷つくんだけど。」
「別に、そんな反応してないっス」
 内容とは裏腹に、思った以上に声音は低く暗いものになってしまった。たぶん、少し緊張している。坂田の言葉の中身と声色も相反していた。ただし来島とはまるで逆の形で。
「ひとり?」
 今はひとりだがこれから高杉に会いに行くということをこの男にだけは説明するのが嫌でどうしたものかとカゴを持つ手に力を込めた。こういうときにとっさに嘘がつけない性分が嫌になる。だが来島が答えを見つける前に、カゴの中を見た坂田は眉根を寄せた。
「何、あいつまた風邪?」
「なんでそんなこと訊くんスか」
 純粋な疑問だった。あいつというのは高杉のことだろう。来島の平生の行動を見合わせればそれを推察するのが難しいことだとは思わない。けれど、坂田がわざわざそれを確認したことが、ただの世間話の延長だとはどうしても思えなかった。
「そりゃー、心配だから?」
 へらりと笑う中身には、ほんの少し皮肉げなものが混じっていた。坂田本人も内心くだらないと思っているのだろうと来島は見当をつける。
「あいつ毎年風邪ひくくせになーんの準備もしねぇのな。つーか病弱な不良ってカッコつかねえなあ。」
 高杉と坂田は幼い時分からの知り合いだと聞いたことがあった。二人を含め、よく行動を共にしている四人のうちのもう一人、桂も同じで、坂本だけが高校で知り合ったと。誰に聞いたのだろう。少なくとも、高杉本人ではないのは確かだ。
「これは私が勝手に買ってるだけで、先輩からは雑誌しか頼まれてない」
 坂田の言葉は昔なじみの親愛からくる軽口というよりは嘲笑に近しいように来島は感じ、少しでもその嘲りを圧し折ろうと言い返す。だが当の坂田はおざなりな相槌を打ちながら、来島のことを楽しげに見るばかりだ。
 これ以上話を続けても結局は何一つ高杉の為にならないと判断して、風邪が流行っているらしいから、と風邪を引いたのは不可抗力だと暗に訴えたあと、来島は強引に会話を打ち切ってレジへ向かった。


 足早に店をでると、店内の暖房に慣らされた身体が悲鳴を上げる。特に、コートとブーツから守られていない脚は悲惨だ。いくらタイツを履いているとはいえ、防寒には全く意味をなさない。身を縮めながらバス停に向かって歩いていると、ふいに、手元の買い物袋を掠め取られた。
「俺も一緒に行く」
 まるで幽鬼かなにかのように気配もなく隣に並んだ坂田に来島はぎょっと目を見開く。帰ったとばかり思っていた。しかし何より今この男はなんと言った?
「心配だし」
 なんで、と来島の口から出る前に先制されたその言葉に、ぶわりと溢れてくものがあった。先ほどと同じように皮肉な意味合いが含まれていればまだよかった。とめどなく生まれ続け出口を求めて身体中を暴れまわるその感情は、とても耐えられそうにない。
 来島は坂田の手から買い物袋をひったくるように乱暴に奪い返す。
「来ないで」
 抑えようとする理性を掻い潜り、反射的に出たものはとても鋭く、なぜだか自分も少しだけ傷を負った気がした。その理由が良心や罪悪感とは別のものだということだけは分かっていた。坂田の『心配』とやらに確信的な色合いを感じてしまえばなんの権利も持たないというのに許せないと強く思ってしまった。まるで何もかも身勝手で、その自覚にたじろぎそうになる。はっきりと低俗だ。それでも口は勝手に動いた。滑稽なほどに。
「先輩のこと本当は嫌いなくせに、心配なんかしてないくせに。あんたの顔みたら晋助先輩ももっと具合悪くなる。」
 高杉について回る来島は坂田たちとも話をする機会が多々あったが、残念ながら彼らのことを好ましいとは思えなかった。高杉にはあの3人とではなく自分や河上たちと一緒に過ごしてほしい、そしてできれば自分たちの傍を一番の場所にして欲しいのだという子供じみた嫉妬心やそういうものを抱けば抱くほどいっそう感じざるを得ない疎外感もあったが、なによりも高杉と坂田の二人の間に流れる空気が嫌だった。仲が良いのかと思えば、一転、憎悪の応酬が始まり、深く憎みあっているように見えるのに、疎遠になることなく同じところで行動し、ふと気づけば険悪なことなどなにもなかったかのようにお互い笑って戯れにふざけあっている。そんな高杉の姿が、来島には耐えがたかった。
 それなりの覚悟を持った言葉だというのに、坂田の反応はきょとんとしたように眉をほんの少しばかり上げるに留まった。あからさまに傷ついたという顔をされるよりはマシだが、まるで心外だと言わんばかりの様子に、先ほど負った傷口がぐずぐずと膿み始める。
 嫌いなものは嫌いと書かれた箱の中へ、好きなものは好きと書かれた箱の中へ、はっきりと分別する来島にしてみれば高杉と坂田の二人を知ることは難しい。その難解が不快だとか悲しいだとか、事情を知らないただの部外者である自分が被害者面をしようとも思っていない。ただ、不用意に傷を負う必要などないと、思ってやまない。そしてそれが届かないことと自らの無遠慮を、知っている。来島がいくら高杉の手を引いたところで、彼はそれを振り払うだろう。そのことだって、痛いほど知っている。
 顔をゆがませた来島の傷をなぞるように、坂田はにんまりと笑った。
「そのコート似合ってんね」
 来島の言葉からはまったく繋がらないことを言いながら伸ばされた坂田の手は影のように素早くするりと来島の首元を通り過ぎて襟の先のフードを掴んだ。花冠をのせるようなやわい動きで、斑のない金糸にフードを被せる。ふわりと、薄い影の落ちる感覚。
「赤ずきんちゃんみてぇじゃん。あ、そうなると俺が狼?」
 茶化すようなそれに、切実なものを無碍にされた類の憎悪で来島は吐き捨てる。
「狼だったらあんたは最後溺れて死ぬっスね」
「だな。でもその前にお見舞い先の病人ぶっ殺しに行かねーと。おはなしのつじつまがあわねぇだろ。」
 口調は変わらず軽いものだというのに、内容に等しく冬の寒さよりもよっぽど冷たい気配がした。それと比べれば来島の憎悪のなんと軽いことか。坂田の表情は、フードが邪魔をして見えない。ぞっと怖気立つものを振り切るように歯噛みして、フードを乱暴に取り去った。コートと同じ色をした瞳を真っ直ぐにねめつけ、今度は意識的に鋭く呻く。
「その前に撃ち殺してやる」
「おっかねぇ赤ずきん。猟師の出る幕ねーなあ。」
 すぐ傍にあったはずの冷たさなど忘れたように坂田は愉しそうに声を上げた。そして自分の手提げ袋の中から何かを取り出してこれまた素早く赤いコートのポケットにねじ入れる。来島は今度こそ数歩、うしろに距離をとる。ポケットの中身が何であろうとつきかえしてやろうと、睥睨したまま手を入れる来島をみる坂田は変わらず愉しげに唇を上げている。
「風邪うつされないようにな。あげる。心配だから。」
 取り出した手の内にあったのは袋売りのマスクと飴玉が三つ。マスクの方は無理矢理掴んだ所為でひしゃげてしまっている。坂田の言葉をもう一度反芻して顔を上げたときには、彼は軽く手を振って、近づいてきた時と同じように希薄な亡霊かのごとく静かに踵を返すと来島が向かう道とは反対の方へと歩みを進めていった。