※一応反転しますが義兄妹パロなので注意。 だれがよんだの? 潜められたことでより深く色づいた非難と困惑の声が届いて、その人が招かれざる客だということだけは分かった。親族の内緒話に注意深く耳を澄ませてみたけれど、こちらが一番知りたい肝心なことは何も言わずに口を閉ざしたので彼が何者なのかまでは知ることができない。 父の仕事関係者や遠い親族など、中年の参列者の多い中でその人は年若く、皆が口元を引き締めたり、顔を歪めて涙を耐えたり流したりしている中、ひとりだけなんだか眠そうな顔をしていて、けれど姿勢は誰よりも美しくぴんと背筋が伸びていた。 適当な理由をつけて通夜ぶるまいの席を抜け出した。葬儀は今回で二度目だったけれど、一度目と同じくやはり茶番のようだった。外側だけがやたらと豪勢で中身ががらんと抜け落ちている。馬鹿馬鹿しいな、と思ったけれど、そんなこと誰にも言えないので、押し黙っている。周囲は勝手に気落ちしていると解釈してくれた。何しろこれで私には父も母もいなくなったのだから当然だ。一度目は母。二度目は父。次があるとしたら私だろう。それがいつ来るのかはわからないけれど、なるべく早くきたらいい、と漠然と思う。 祭壇に飾られた父の写真は、穏やかに微笑んでいる。父の知人が譲ってくれたものだった。周囲が父を語るときの言葉にまず上がるのは「優しい人で」というものだったが、その優しさはいつだって中途半端でなにかを解決するような強さはなかった。むしろ母に関しては、彼女の激情の炎を煽るだけだったように思う。父は母に怯えていて、持て余していた。私のことも同じように。私と父との間にどんな過程があろうと、こうなってしまえば少しぐらいは泣いてあげるべきだと思ったけれど、今のところ涙は欠片も出そうになかった。罪悪感すら不思議と湧いてこない。私もきっと、誰かの涙を餞に与えられることはないだろう。 誰が厄介な孤児を引き取るのかと目配せが飛び交う場にこのまま戻るのも気が重く、手持ち無沙汰に、祭壇に飾られた百合の花びらに手を伸ばす。染みひとつない清純を思わせる白。そういえば母はこの花が嫌いだったな、と思い出しながら、もう少しで触れるという瞬間、また子ちゃん、と聞きなれない声で名前を呼ばれた。はっと振り向くと、扉の前に例の招かれざる客が立っていた。焼香の後、どこにも姿が見えなかったので、きっと帰ったのだろうと思っていた。結局親戚にもどういう関係者なのか聞けずじまいのままだ。 「俺のこと覚えてる?前に一度会ったことあんだけど。」 「…すみません、覚えてないっス」 「はは、しゃべり方変わってねーんだ」 ゆったりとこちらに向かって歩く彼は私の記憶に存在しないことに気を悪くした様子はなく、俺は覚えてるよ、と付け足した。 「それ、中学校の制服?」 「そうっスけど…」 「ふーん、セーラー服のスカーフ、白なんだな」 実のない話をしながら、彼は棺の前で立ち止まって、父の遺影を見上げた。 「父とはどういうお知り合いなんスか」 「どういうお知り合いだと思う?当ててみて。」 言葉の中に笑いを含ませて、今度は父の御棺の開かれた小窓部分から中を覗く。招かれざる客なのだから霊前でなにかするのではないかと思ったけれど、つつがなく決められた手順を踏んで去っていった焼香の時と同じようになにかもめごとを起こすような気配はなかった。父の亡骸を見下ろす彼の横顔からは悲しみも喜びも窺えなかったけれど、確かにどこかで見たことのある顔だと感じた。顔の造りではなく、もっと別の気配として。彼は棺からふっと瞳をあげる。私の視線とかち合うと、へらりと笑った。 「また子ちゃんも、こうやって棺の中興味津々って感じに覗き込んでたなあって思い出してさ。」 言いながらその人は棺から離れた。暇を持て余すように、祭壇に沿って歩く。彼が言っているのは半年前の母の葬儀のことではないだろう。少なくとも興味深く棺をみてはいないし、銀髪の若い男の姿も見ていない。ひょっとしたら死ぬ直前まで遊び回っていた母の相手の内の一人かとも考えていたけれど、違うようだった。だとするとやはり父の関係なのだろうが、私は父のことはほとんど知らないのでそうなると一生答えは出ないだろう。 堂々巡りに考えている間に、コツコツと固い足音が私の傍で止まる。彼は先ほど私が触れようとした供花に手を伸ばすと、小ぶりの白百合を手折った。躊躇のかけらも感ぜられないその行動にぎょっとする私の前に、それを差し出す。 「あげる」 ふっと何かがこみ上げてきそうになって、なのにぎりぎりでとどまってしまう。そのもどかしさに気を取られ、非常識な行動を咎めることも、差し出された花を受け取ることも出来ずにいると、その人は軽く微笑んで白百合を私の耳にかけた。じくじくと膿んだように違和感の熱を持ち始める心臓と気恥ずかしさに花を取ろうとしたところで、また子ちゃん、と今度は女の鋭い声音に邪魔されて、自然と指先が止まってしまう。 入口を見ると、伯母が立っていた。喚きたてる寸前の母と同じ顔をしている。私の名前じゃなくてこの人の名前を読んでくれればなにか思い出したのかもしれないのにと考えている間にも、なにをしているの、あなたどうしてきたの、と伯母は矢継ぎ早に彼に詰問する。その人は花を手折ったときと同じく、なんのこともないように伯母を見ていた。この人はこの場所にいる人間に何をされたところでなんとも思わないのだろう。だからこそ、ここへやってきたのだ。侮蔑というほどあからさまではないけれど、どこか冷ややかなものを感じた。 冷ややか、と、心の中で反芻する。亡骸の父を見下ろす表情、花を手折ったこと、そうだ、すべてが冷ややかだ。つまらない茶番を見るような温度のない瞳。正体なんてもうどうだっていいから、もっとそうやってこの茶番に冷や水をかけてくれればいいのに、と、考えた。少し、期待した。彼が現れた瞬間もきっとそう願っていたのだ。自覚していた以上に私は父のことを憎んでいたらしい。そして、母のことも。 願望を込めて彼を窺うと、彼も私をみた。眼鏡越しの細められた瞳は私の望みを看破しているようにも思えた。そして、私から視線を外して伯母に向き直る。つられるように伯母を見れば、だんだんと死んだ母を前にしているような気がしてきて、なんだったら私も一緒に手伝ってもいいかもしれない、と思った。私の前ではもう何年も見せなかった顔で笑う父の写真も、さっさと逃げ出した亡骸も、茶番劇の大道具でしかない大仰な祭壇も、こんなくだらないもの全部壊れてしまえばいいんだ。 「この子のこと、俺が引き取ろうと思って。ああ、俺今高校の教師やってるんです。今のところ結婚の予定もないし。なにより、もうこれで肉親もいませんし。この子以外。っていっても半分だけ、ですけど。」 穏やかに紡がれた言葉が切れると同時に、肩を掴まれ抱き寄せられた。身体が強張った。けれど、とっさに突き放すこともできなかった。耳にかけられた百合がバランスを失って落下してゆく。それを、見ている。黄色い花粉を紺色のセーラー制服に擦り付けながら、足元へ零れていって、その瞬間、あと一歩というところでとどまっていたものが、あふれだした。どうしてすぐに思い出さなかったんだろう、と信じられないぐらいあっけなく、次々と記憶が繋がっていく。なぁまだ思い出してくれねぇの?と耳元で小さく笑う声がして、一層強く肩を握られた、気がした。 あの日、なんだかよくわからないうちに母に手を引かれてタクシーに乗せられた。どこへ行くのか尋ねたような気もするけど母が何と答えたのかは覚えていない。何も答えてくれなかったのかもしれない。途中、ワンピースと、それと同じ色をした靴を買って着せられた。母も私と同じように買ったばかりのワンピースと新しい靴に着替えていた。色は私とお揃いだった。こんなに準備をするのだからきっと楽しいところへ行くのだろうと期待したのは覚えている。遊園地に行く時も、動物園に行く時も、遠出をするときはいつだって、母は念入りに着飾ったからだ。 けれど、着いた場所は楽しいことなんか何一つなさそうな所で、何より驚いたのはそこにいる人たちは大人も子供もみな同じ色の服を着ていたことだ。私はやはり何一つわからないまま母に手を引かれて色彩の失われた四角い建物の中に入った。 たどり着いた先は中心に横長の白い箱が置かれただけの部屋だった。そこに、父が居た。そしてその傍に見知らぬ男の子。仕事はどうしたのだろう、男の子は誰なのだろう、そんな疑問を抱くよりも前に、こちらを振り向いた父が泣いていたことにショックを受けた。父も泣くことがあるのだという驚きと、大の大人が涙するほどのものがこの場所に存在するのだということに不安と恐ろしさを覚え、どうしていいのかわからなかった。母は繋いだ私の手を解いて、ひとりで長い箱に近づいた。私は縋るように母の脚にしがみ付いたけれど、やんわりと身体を離され、そのまま母を見送った。箱の前に立った母の後姿に特に変わった様子はなかったが、すぐに父が手を引いて、 部屋の隅の方で二人何か話し始めた。父と母が二人きりの秘密の話をするのは珍しいことではない。ほうっておかれるのに慣れた私と名前も知らない男の子だけが箱の前に残された。男の子は私よりもずいぶん背が高く、向かいの家のお兄さんが来ているような標準の黒い学生服を着ていた。 箱の中にはいったい何があるのだろう。しわしわに干からびたミイラだろうか、それとも鋭い牙をもったドラキュラだろうか。箱の中身を見た母の身に何も起こらなかったことへの安心と興味が背中を押して、部屋の中心に近づいた。つまさきを必死に伸ばして恐る恐る箱の中を覗き込むと、そこに居たのは、おどろおどろしい怪物でもなんでもない、白くてきれいな、童話のお姫さまだった。優しい色をした花のベッドで眠りについて、王子様の口づけを待っているお姫さま。絵本の中のものが本当に存在していることに興奮して、隣に立っていた男の子にいろいろと話かけたのを覚えている。このひとはだれなの?ねむりのもりのおひめさまなの?男の子は眠り姫の童話を知らなかったようで、不思議そうな顔をした。そんな彼に、私は揚々と話してあげた。悪い魔法使いに呪いをかけられて、茨の森の中で永い眠りについたお姫さまが、勇敢な王子様の口づけで目覚めて、二人幸せに暮らした物語。 男の子は私の話を聞き終えた後、棺に手を差し入れてそこから白い花を取り出すと、お前のほうがお姫さまみたいだけど、と困ったように笑って、その花を私にくれた。お姫さまみたいという彼の言葉と差し出された花に嬉しくなって、話し込んでいた父と母に見せに行った。一緒に笑ってくれると思った。母は私と花を見下ろすと、私の手のひらごと叩いた。手から零れた白い花は、ワンピースに花粉の黄色い跡をつけながら落下してゆき、床にたどり着いた瞬間、先の尖ったハイヒールに踏みにじられる。そう、目に痛いほど鮮やかな、赤いハイヒールに。白い脚の上にひらめくものも真っ赤な布地だった。記憶にはないけれど、母の性格を思うときっと彼女の唇や爪の先までも赤く塗られていたんじゃないかと思う。 このきっかけを待っていたのだとばかりに噴出した普段より輪をかけて激しい母のヒステリーに怯えて立ちすくんだ私の身に着けているものも、少年の言ったとおりお姫さまごっこに相応しい、ふわふわの赤いワンピースとピカピカの赤い靴だった。みんな同じ黒い服なのに、どうして私たちだけが赤いのだろうと不思議だったのだ。でも今ならわかる。ひどく場違いで悪趣味な、母の怨念の色。 望んだ冷や水は見事に私を狙い撃った。ぞっと体温が下がるのに、心臓だけが燃え上がるように強く脈打っている。父の愚鈍。母の愚昧。なにより、見当違いの私の期待。そして、それを見つめるかつての少年の眼。 俺は覚えているよ、と先ほどの言葉が甦る。 「来年高校生だろ?俺のとこの高校の制服、また子ちゃんに似合うんじゃねぇかなあ。真っ赤なスカーフなんか特に。」 私の足元から、今度は踏みつぶされなかった白い花を拾って、指先で弄びながら、二度とめざめることのない眠り姫のこどもが謳う。 |