※ また子が肉体的に痛いことされてます。名もないクラスメイトが数人でます。 来島が3年に上がり、クラスメイトたちと水と油のようにごく自然に分離した、まだ夏の残滓の色濃い9月の朝、下駄箱の扉を開くとローファーを置くスペースに三毛の子猫の死骸が押し込まれていた。肩どころか身体ごと、びくんと大きく跳ねさせて息を飲む来島の後ろを通った女生徒が、来島のあげることの出来なかった悲鳴を上げた。それがきっかけだった。一度転んだ坂は面白いほど、来島を転がす。ごろりごろり。止まる気配もなく。教室の机には落書きが増えた。教科書は必ず持ち帰らなければならなくなった。澱んでいた空気は明確な悪意を孕み真夏の毛布のように密度の高い熱を持って来島を包み込んだ。無邪気と無意識。同情と傍観。残酷と未知。そういったものが、ごろりごろり、速度を助長させる。 音さえ聞こえてきそうな来島の転落を慰めたのは、春からなにかと気にかけていてくれた銀八だけだった。来島のクラスの担任である今年着任したばかりの新米教師と違い、今年は担任を持たなかったこともあって時間的にも余裕があるようだった。心持の余裕ならば担任を持っていた前年度からありあまっている様子であったので、他の同僚教師達も自然と、問題児の扱いを銀八に任せるような形になっていた。 銀八の来島への干渉は、幼い頃から見知った仲の隻眼の少年との関係の延長であったのかもしれない。しかし、高杉が心配していた、と、ただそれだけの言葉がどれほど来島を歓喜させ救ったことか。 密やかなる悪意とそれを内包する無関心の中、漂う一筋の糸。来島は失ったものへの媒介とするように銀八に懐き、結果、生徒間での孤独をよりいっそう深めていった。銀八が規格外の振る舞いによって生徒に広く受け入れられる教師であったことも拍車をかけた、のかもしれない。そしてそんな中の、子猫の死骸。 脆弱を補う如く執拗に纏わり付く暴力に対する適切な対処法も興味も等しく来島は持っていなかった。誰彼構わず恫喝し気が済むまで暴れまわることもできたが、逆に惨めな思いをするだけだと分かっていたので、簡単に、黙殺する術を選んだ。物言わぬ暴力を力任せに振り払うことはできないと、よく知っていた。 銀八は来島の選択に異を唱えることも不備を指摘することもせずに、軽口の中に丁寧に優しさの芯を詰めて来島に放った。纏わり付く暗澹をなんのこともないように払う気軽さで、頭(こうべ)を撫ぜる。 そのうち飽きるだろう、どうせあと半年よりも短い間なのだから。 招き入れた国語準備室で銀八は来島に話した。来島もそれはもっともだと思い大いに納得した。もっと他者に心を開くようにと諭す担任よりもよっぽど正しい答えだと思った。何かにつけてクラスを同化させてひとつの大きな塊にしようとする担任が来島は好きではなかった。あの若い教師の言うことも勿論道理である。自意識に満ちた箱庭の砂には地雷がびっしり埋め込まれていて、器用に避けられぬ者はただただ死んでいく。手と手を繋いで牽制しあってあるいは協調しあってはぐれぬように笑いあうことも必要なのかもしれない。 けれど、もがけばもがくほど笑ってしまうほどあっさりと深みに落ちる、自らの性分や運命というものを来島は考えてしまうのだ。 来島は決して彼らと馴れ合いたいわけではない。欲望の赴くままに拳を振り落とした人間と、どう笑いあえというのだろうか。そんなもの、とても許容できない。 あとたったの半年。ならばいいではないか。来島は銀八の常備品である菓子を分けて貰いながら思った。その時には諦観にすら慣れきっていた。銀八はただただ来島を受け入れるのみである。菓子のような甘ったるさはないが、それは深く静かで心地が良かった。 入り浸るようになった準備室からの帰り道、来島はいつものようにスカートのポケットから携帯を取り出して確認するのを忘れない。忘れることができない。新着なし。変化のない画面を見るたびに、身体中に隙間風が吹いてきて、凍えてしまいそうだった。まるで暖を取るように携帯に縋りついて、新規作成の真白いメールに文字打ち込む。他愛の無い内容。それさえも探すのに時間が掛かるようになった。無機質なディスプレイに苦し紛れの文字の群れが泳ぐ。今にも枠から逃げ出してしまいそうで、唇を噛み締める。白んだ唇をゆっくりと解いて、来島は、だらりと腕を落とした。携帯は今にもその手から零れ落ちそうだったが、落とすことは決して、ない。 卒業してしまった先輩からのメールを見るたびに諦めていたはずのものが疼いた。虚飾された生活を小指の先ほどもない小さな文字に托すたびに、罪悪感や途方もない失望が巡る。無論、自身への失望である。紛れもない、いっそ憎憎しいほどの。あぁ消えてしまいたいなあと漠然と思う。安易な逃避だ。来島を甘く誘う。だからこそ、抗う。 憧憬に恋情というラベルを貼り付ける作業はいたって安易であろう。高杉のことにしたってそうだ。しかしそれは逃避や愚鈍と同じ意味を持つように思えてならない。なにより、彼に対する手酷い裏切りだと思った。安易な方法で足並みを揃える狡猾を大多数が持ち合える中、来島は潔癖を捨てきれない。それゆえに、肩を寄せ合い誤魔化しあいながら笑い合えない。 踏みとどまった景色の先で微かに光るのだ。完成されないうちに触れてしまえばぐにゃりと融けてしまいそうな柔い希望が。失いたくなかった。例えそれが幻想であっても。どんなに妥協や予防線に近い言葉を尽くしても、来島は心根では美しいものを信じているし、その美学に沿って生きて行けたらいいと考えている。そしてその信仰こそが救済であり、諸悪である。 「世界は広いから難しい。だから、閉じちまえばいい。ここだけの世界。そこだけ護ってりゃいいんだよ。」 重そうな木製の机に肘をついた指先で、空中に円を描く銀八は相変わらず気だるげだ。準備室の窓から覗く木の葉はあっという間に色を変えてゆく。同じく、あっという間に葉が落ちるのだろう。校庭では、部活動中の運動部が声を張り上げて、何かを叫んでいた。 「それって寂しくないんスか。」 寂しいという言葉は嫌にみじめったらしくて、自身の奥底にこびりついてしまうような気持ちになってしまう。言葉にした瞬間羞恥と後悔が襲ってきた。きっと、銀八に向けつつもその実自分自身に向けているのだ。来島はぐっと俯く。 「寂しい、ねぇ?どうだか。」 宙に描かれた丸のような、小さな世界を考えた。今だって、来島の世界はせまい。そこでさえ来島の両手の長さではまだ足りない。その足りない世界を更に大きく広げて、欲望の赴くままに拳を振り落とした人間と、どう笑いあうかを考えた。けれど結局答えなど手の内にも心の奥底にもない。ないものはどこにもない。欲望の内側を少女は知らない。では、助言どおりに縮めてみたら、どうなるのか。来島はそっと銀八を窺う。とうに教師の顔に戻って教科書をぱらぱらと捲っていたので、そのまま口を噤んだ。代わりに、別の言葉を堅く閉ざした心の内から絞り出す。視界の端に映るものが、ある。ゆらゆらゆれる、小さな、 「……三毛猫」 言葉と一緒に心臓からも血を絞りつくしてしまったかのように、指先が冷えてゆく。ざわざわと背筋が粟立つ。下駄箱に詰められていた小さな子猫が耳の奥で細く、鳴く。にゃあ、にゃあ、にゃあ。 「まだ辛い?」 銀八は立ち上がると、来島の傍に身体を寄せた。煙草の苦いかおりが微かに届く。もう、何度目かになる、子猫の話。ずっと忘れられない。 「……どこから連れてきたんだろう」 「きっと、そこらの野良だろうな。ひでぇこと、するよな。」 縋るように、来島は視線を上げる。 「なんで……」 銀八は痛ましいものへ向ける慈愛を交えた眼で、来島を見ていた。これ以上、口にするのは躊躇われて、唇を結ぶと、来島は身を守るように微かに背を丸める。その背を銀八の掌が、まるで力を加えれば壊れてしまうとでもいうようないたわりの仕草で、撫ぜるものだから。ぎゅうと、きつく、目を閉じた。見たくないものごと、押しつぶすように。 葉が落ちきった頃には、準備室からの帰り道に、携帯はもう見なかった。距離はあまりに遠くて、季節と同じように彩色は失われていき、来島は以前よりも身動きが取れなくなっていた。脅えているわけでもないのに。得体の知れない感情に足を取られている。息苦しくて堪らない。けれど声を上げられない。色を失う現実とは裏腹に感情だけが色鮮やかで、そんな多様な彩を抱えすぎて、くらくらと眩暈がする。 とうとうカーテンを締め切った薄暗い教室に引きずり込まれた。今にも雪のちらつきそうな、重い雲のかかった寒い日だった。 移動教室の場所変更の連絡をクラスの中心に位置するグループの女生徒に教えてもらい、久しぶりに、ほんの少し、世界に許されたような気になった日のことだった。もちろん変更場所の教室とは来島が組み敷かれている教室のことである。 見覚えがあるような曖昧な面差しの男子生徒が数人、来島の腕や脚を押さえつける。標本を貼り付ける虫ピンのように。その後ろには女子が男子と同じ数だけいた。名前も顔も知っている彼女達はいつだって来島にどうにも踏み込めぬ境界線を提示する。今この瞬間もそれは変わらない。こうまでして怨まれる理由が来島には皆目見当が付かなかった。普通よりは少しばかり噛みあって居なかったかもしれないが、それでも淡々と日々を過ごしていただけだ。誰を傷つけたつもりもない。しかし、憎悪に大した理由など必要ないことも理解していた。柔い狂気を孕んだ教室に沈殿していく密やかな笑い声が、ただただ不気味だった。 ビョーキがうつるからヤっちゃだめだよ。女生徒の言葉は机に広がった中傷を来島に思い起こさせる。くだらない。あまりにもくだらない。しかしそれを今嘲笑う気にはなれない。 生徒の一人が理科室からくすねてきた試験管を翳した。幼児性を持ち続けたまま知識だけを得た生き物の残酷には吐き気を催すものがある。ガラスを飲み込んでいく性器を、隠し切れぬ興奮を覗かせて、小さな獣たちが食い入るように見つめる。気持ちの悪い生き物だと来島は心から思う。羞恥よりも猛烈な嫌悪感に身を捩り罵声をあげて逃げ出そうにも、にたにたと下衆な笑みが見下ろすばかりで、来島の気力ばかりを削っていった。次第に来島の身体から押さえきれない怯えが溢れだし、そのことも獣たちを喜ばせた。 女子のひとりがもがく来島近づいて片脚をあげる。彼女は笑顔のようであったが、それはただ単に恐怖で口元が引き攣っているだけだと、優位性を根こそぎ奪われた来島でさえ分かった。それでも無理に笑おうというみにくい虚勢。来島はそれをみつめる。こんなときに、否、こんなときだからこそかもしれない。下駄箱に詰められた可哀想な子猫を思い出した。音はなかった。代わりに無理矢理押さえ込まれ、くぐもった絶叫がひとつ。 何がそんなに憎らしいのか、それとも帰り道がわからなくなったのか、女生徒はその後も何度も来島の下腹部を蹴り続けた。そして、性器から赤い雫が滴ったのを合図に蜘蛛の子が散るように皆逃げ出した。来島はひとり大きな蜘蛛の巣から逃れられない。これからもっと大きな蜘蛛が現れてバリバリと食べられてしまうのかもしれない。毒々しい色をした、大きな蜘蛛。右足をもいで、左手をもいで、ゆっくりゆっくり咀嚼していく獣に似た口。たくさんの瞳が欠損した自分を見ている。そんな馬鹿馬鹿しい妄想もやはり笑えないまま、かすかな呻き声をあげて、気狂いしそうな痛みに耐える。和らぐわけでもないのに、自然と腹部を抱えるように丸くなった。丸、まる、まるい、小さな、世界。じっとりと汗。熱いのか寒いのかすらわからない。恐る恐る移した視線の先の赤い色には閉ざされた未来が映っている。感情が競りあがる気配がしたが、すぐに失せてしまった。ぱりん。来島の中で音が弾ける。膣の中で割れたガラスの音がようやく届いたのだろうか。ぱりんぱりん。割れたのは一度であるはずなのに、その細い音は時計の秒針のように正確に、延々と、砕け続けた。砕けたステンドグラスのように様々な色をした破片たちはキラキラと、来島の美しき信仰に反射して、目映く輝いて、内から外へ向かうように来島の肉に突き刺さり、埋まり、切り裂いていく。そして、どろりと被さる暗黒。すべての色が交じり合った、未来と同じ色。流されるまま、消えてゆく。 妙な感覚に揺り起こされて暗闇から抜け出せば、三毛猫のストラップがゆらゆらと揺れていた。その先に目映い銀色。携帯電話で誰かと話をしているらしい。声には切迫感がありありと詰まっていた。せんせい、と言おうとしたけれど声は出なくて、リップクリームがとうに乾いた唇も上手く動かせない。 「っ来島?」 抱きかかえるように来島を支える銀八の手のひらがぎゅうと力強く肩を掴む。そこからじわりと現実が流れ込んでくる。覗き込む強張った顔が安堵したようにほころんだ。 これから病院に連れて行く、なにも心配しなくていいから。諭すような銀八の言葉に、来島はゆっくりと肯いた。触れられた部分だけではなく、視界や言葉からも同じく確かな感触が流れ込み、内側からの痛みがいっそう強まる。もうおしまいだと思った。羨望していた柔い光はもう見えない。それでも涙は不思議と出なかった。 振り落とされたものに気づかぬふりをして、その感情に偽りのラベルを貼ればその先にあるものはなんだろう。来島はぼんやりと、銀八をみつめる。 決定的に手放せずに、ずるずると、そこにあるのが残酷だと知っていながら。気づかないふり、見ないふり、沈黙の先に黙殺。狭い世界の円のなかを逃げ惑う。落とされたのではなく落ちているのだった。落下速度は振り落とされた白い脚の速度よりもずっとはやい。 三毛猫のストラップは来島が渡したものだった。いつも、気にかけてくれるささやかな礼に。先輩たちが居なくなり不安だった生活にそっと手を添えてくれたことが、ただ純粋に嬉しかったから、それを言葉でうまく伝えきれないような気がして、その代わりに。来島はぎゅっと銀八の白衣を、掴んだ。 「……せんせい」 今度こそ呼ぶことができたけれど、少しだけ後悔した。その悔悟さえ、なにもなかったように、暗い場所に融けてゆく。 ん?と声が落ちる。先ほどとはちがう、あまりにも穏やかな声だった。もしかしたら平生よりもずっとずっと優しい、いとおしみさえ込められているような。今この瞬間に、まるで似つかわしくない。 来島は知っている。まだゆらりゆらり微妙な瀬戸際を漂っていた頃。ふらりとサボタージュした午後の授業。昇降口へ向かうまでの二階の廊下の窓。そこから見下ろした校舎裏の焼却炉の傍で銀八が抱いていた子猫の模様。茶色、白、黒。顔の模様が独特で、よく覚えていた。だから、下駄箱に入っていた子猫が同じだとすぐに気づいた。偶然か意図してのことなのか、渡したストラップと同じ三毛猫。ようやく分かった。子猫のことを話しても悪質な行為に苦言を零すだけで、どうして子猫への愛情を口にしないのか、どうして知らないもののように振舞うのか、ずっと不思議だった。それが、分かった。いや、違う。ようやく、認める気になった。だってもうおしまいだから。本当のことなんてなんの意味もない。 開きかけの、血の気の失せた唇を、ゆっくりと閉ざして。額を銀八の胸に押し付けた。答えるように、銀八の手のひらがそっと金糸に触れ、ぎゅうと抱きしめる。大丈夫、大丈夫だから。銀八は優しく繰り返す。そのたびに、やはり優しく頭を撫ぜるのだった。来島は銀八の中に逃げ込みたいといわんばかりに、いっそう額をこすりつけた。この先には甘い繭がある。その閉ざされたまどろみに目が眩む。絶望がゆったりゆったり来島を撫ぜつけるので、声さえ上げられない。今まさに獣の口で貪られている。救われたようにみせかけて、その実、巣食われていたのだ。 きっと間違っている。けれど、正しさとは一体何の価値があるのだろう。その正しさが、美しさが、来島を救うか、否。 たとえ未来に光がなくてももう構わない。出口のない矮小な世界を廻ろう。色をなくした白い唇が戦慄いて、嫌に哀しい形を作った。 ばさりと長い髪に隠されたそのかんばせ。来島は先ほどのみにくい少女よりよっぽど上手に笑うことが出来る。 |