「もういいよ、これでお終い」
あんまりにも簡単にいうものだから、なんで、と囁きには大きすぎる声がするりと零れ落ちた。その言葉の色のあまりの醜さに私は怯えた。けれどそれ以上に、私の感情のすべてを掌握していたはずの男が理解の欠片も見せない視線を送ってきたのが痛覚を感じるほどに悲しく、そして私自身でさえ理解しがたいその悲しみはすぐにおぞましいほどの屈辱へと変容した。男の表情は言葉通り本当に「もういい」のだと感じるに足るものだった。蛍光灯の光を無機質に反射させる灰皿に残った写真の燃えかす。もう私を縛るものはどこにもない。それをずっと望んでいたはずなのに、浮かんだものはあまりにも違った。けれど、その相違への怯えは、それを上回る強い感情にあっけなく飲み込まれてしまう。
「私のこといらないんだ」
唇がつりあがる。瞳も、きっとそうだろう。憎悪が眼窩に集約されていく。視線だけで先生を殺せる気がした。諦観に搾り取られてとうに涸れ果てたと思っていたものが内側から湧き溢れてくる。口元は笑ってしまう。自嘲に近い。言葉は今度は零れずに、私の内側でするすると固まり、鋭利に尖りゆく。ハリネズミのように身体中から棘が生えそうだった。そしてその針には毒が塗ってある。その毒を私に与えたのは先生だ。
先生は少し目を見開いた後、眉を顰めたけれど、それがどのような感情の起因で発生した事象なのか私には分からなかった。私と先生の間には常に約束事があってそれは先生は私のすべてを掬い上げ玩弄することと私は先生のなにかを掬った先からぜんぶ零れ落とすということだった。だから私が先生のことが分からないのは当然なのだ。先生がそう決めた。先生は私を先生の生涯に閉じ込めた。私の骨はもう埋まっている。陵辱に殺されて、冷たい土の中で腐った肉は虫に食われている。もうどこにもいけない。それなのに、それなのに、この男は。
先生は私を見るのをやめて、灰皿に残されたぺらぺらの灰の重なりを、ゴミ箱に捨てた。それを切っ掛けに煮沸した怒りそのままに私は先生に飛び掛って床に押し倒し馬乗りになった。先生がいつか私にしたように先生を拳で殴りつけた。何もしないほうが酷い目に合わなくてすむと認めたときの私と同じように先生は抵抗しなかった。先生が私と同じ気持ちなのかどうかはわからない。ただ、だたりと身体を投げ出して、私の好きなようにさせていた。その姿は私の屈辱と妄執をいっそう燃え上がらせた。いっそここで犯してやれたらどれだけいいだろう。私も先生と同じことをしてやりたい。捻じ伏せて、引き裂いて、嘲笑して、押さえつけて、何もかも暴いて、奪い去ってやる。でも私は絶対に逃がしてなんかやらない。先生とは違う。私をあの灰と一緒に捨てた先生とは違う。
「ゆるさない」
私の怨嗟の言葉にようやく先生は笑った。息を吐くような笑いだった。私にその笑みの理由は一生わからない。だってそれが先生が決めた私と先生との約束事だった。だから私は分からないままに、泣くしかなかった。泣きながら、ゆるさないと、それしか言葉を知らない子どものように繰り返した。先生はまだ笑っている。私の知らない顔をしている。