深い濃紺の闇に落とされたような部屋の中で、私と彼は硝子越しに海の中を見つめていた。
出先でも表立たず専ら一人で忍ぶ彼が、私だけを呼びつけるのは珍しい。一体何用だろうかと落ち着かずに彼の後をついていくと、抜けるような透き通る海の色が硝子でできた壁一面に広がっていた。
「すごい…」思わず声に出ていた。感嘆の溜め息すら漏れ出そうなほど見事な眺めだった。終わりがないかのようにどこまでも続いている硝子の壁。海の中に沈んでいる 箱の中にいるみたいだ。
「すげぇよな」
俺もここまで緻密に再現されたものは初めて見た。と彼は素の感情を顕にしていた。
ここの主の趣味らしく、絶滅したはずの水生生物をこうして飼っているのだと聞かされた。海と繋がっているのかと思わせるくらい大型過ぎて、これが人工の水槽だとは思えなかった。
彼が食い入るように見つめる先には、煌めく銀の刃のような魚の群れや半透明の生物が無尽蔵に泳いでいる。水中の深さは遠くなるほど色濃くなっていて、言葉に例え難い色彩を呈している。青にも様々な色があるのだと初めて知った。

天人が来てから世界の全てが変わった。環境をも変化を強いられ、元来の種は生存競争に負けて殆ど見なくなってしまった。
私は沿岸部で暮らしたことも出掛けたことすらなかった為、かつての海をよく知らないのだという話をいつか、酒の席で交わしたことがあったように思う。
書物や画面越しには知っている魚や海月というのが現物は実質如何なる物なのか、目で見て知らないのだ。
「…昔教えてもらったことがある、」
彼は『誰』からとは言及せず、その「教わったこと」をぽつりぽつりと話しだした。全ての祖は海からであったかもしれないこと。かつては溶岩の海であったこと。海水にも金や銀が含まれているといこと。それらは寺子屋で習う知識なのだろうか。通ったことのない私には知りえないことだが、かつて海はもっと広大で、今は埋め立てられ蝕まれたものなのだということを、彼は話した。聞いたことのない話ばかりで、私には全てが新鮮だった。ここまで饒舌になる彼も然り、見たことのない景色と相まって意識に溶け込んだ。

これから人を殺そうという人間になぜこんなにも鮮やかなものを見せるのか、ふと根底で疑念が湧くも男の裡は量り知ることなどできない。
「この奥に待たせてある」
「…はい、」
硝子で覆われた箱のようなエレベーターで、下へと降りた。人工の海はどこまでも続いているようで、ぞっとするほど深くまで下がっていった。最下に着くと、彼は一つの部屋を指して私を促した。
彼一人では成し得ない情報があるのだ。女を餌に聞き出し抹殺するのが今回の役目だ。標的には私を慰みとして宛がうのだと伝えてある。そこへ行き、情報を引き出して消すまでが私の仕事である。
これは彼が思いついたのではく私自身が望んだことだった。使える武器として最大限に活用して欲しいと申し出た。
それまで彼は私を「女」という部品の見方をしていなかった。彼にとっては単なる戦力の一部だった。それを特殊な駒に変化させた。
あまり触れさせてやるなよと一度、彼は溢したことがある。どうせ殺す天人なぞにいい思いをさせてやる必要はない。そう言って交渉の術を私に身につけさせた。まざまざと彼に作り変えられていく駒は彼の言葉を全て吸収した。
下衆な勘繰りを周囲から受けることも少なくかった。だが私だけが知っていればいいことだった。彼の思想や概念を余すことなく噛み砕き飲み下せずとも、それに魅せられて焦がれるだけで充分に満たされた。
いくら彼という人間の深淵を覗けても、そこに填め込まれた硝子の隔たりは分厚い。

遂行し終えた私はエレベーターの上昇ボタンを押した。
上がっていく箱の中で一人、硝子に手を合わせる。掌に付着していた返り血が滲んで、水を汚してしまったように見えて慌てて拭う。見知らぬ魚が横切った。ずっと奥まで続く重厚なかち色はどこか安堵させた。額を合わせて、この中に入れたらと想像する。すると無音であるはずの水の中から、脈動が聞こえた気がして、耳を当てた。閉じた瞼の裏で彼の眼差しが蘇る。かつて息づいていたはずの奪われた命の水槽を眺めて、彼は何を思っただろうか。
底知れぬ藍の闇が足元から近づいてくるような気がして、早く地上へ戻ることだけを願った。