がらんとした下駄箱の前。軽やかだが、本質を透かしたような仄暗い声音に呼び止められて、来島の肩が小さく跳ねる。四時間目はまだ始まったばかりで、こんな場所に生徒はいない。もちろん、教師だってそのはずだ。なのに銀八は何処にいたって来島の不幸の匂いを嗅ぎ付ける。車に轢かれた動物の死骸を目敏く見つけて啄むカラスのように。黒い嘴が引きずり出した生々しくひかる赤い臓物までも眼窩に浮かんで、粟立つ背筋と煮え立つ内臓のそら寒い心地に来島は唇を噛んだ。本当は今すぐにでも膝をついてえずいてしまいたいけれど、そうしてしまえば二度と立ち上がれない気がした。
「帰んの?」
「…具合、悪いんス」
靴箱から靴を取ろうとした手は途端に鉛のように重く変わって自由がきかない。言葉は嘘ではなかった。三時間目の家庭科の授業中にふらりと視界が歪んだ来島は保健室のベッドで休んだ後、養護教諭のしばしの不在を幸いとばかりに逃げ出してきたのだ。これ以上、怖ろしいことがおきないように。
「送ってってやるよ。俺、午後まで授業ねーから。」
銀八は柔い金髪をそっと一束掬う。金糸はするすると指の間をこぼれてゆく。その手を払うように、来島は顔を背け、呻いた。声の震えを出さないように、慎重に言葉を紡ぐ。
「…っ、一人で帰れる」
早く帰らなければ。これ以上怖ろしいことがおこらないように。まだきっと嘘に出来る。わからないままでいられる。なけなしの自尊心を奮い立たせてようやく靴を掴んだというのに、その手首はあっけなく捕らわれた。ぐらり、と、世界がまたひずんだ。蒼褪めた顔はいっそう悲痛の色を深めるが、捕え人は力を緩めない。
「そういえばさあ」
来島が抵抗を形にするまえに、体に腕を絡められて抱き寄せられた。もっとも、手足が自由に動いたところでその抵抗とやらが本当にできたかさえわからない。強張る来島の身体を覆うように、ぴたりと、ひと月前より痩せた背中についた銀八のからだ。接触は容易く来島の悪夢を引きずり出す。それこそ、カラスの嘴が中身を食い破るように。真っ赤な中身がぶちまけられて、その鮮やかさはしごく生臭い。
「お待ちかねの、せーりはきた?」
耳元で愉しげに囁かれた言葉に、身体の温度がさっと下がって内側がガタガタと騒ぎ出す気配がした。憤怒屈辱悲嘆、どんな感情よりも恐怖が勝って、耐えられない。なのに、叫びだすほどの力もない。
「や、め…、てよ」
「やだ」
息絶える寸前の雛鳥の鳴き声程度、そんなささやかさで零れた来島の言葉を、簡単な一言でいなしてしまう。少しでも距離をとろうともがけば、絡みついた力がふっと緩んだ。けれど逃げ出すことを許すわけもなく、肩を押されて、おもちゃのように容易く、今度は向き合う形で靴箱に押さえつけられる。大声で叫びたいのに、振り払いたいのに、ずたずたに切り裂かれた自尊心は怯懦に押さえつけられるばかりで、噛み付く牙も突き立てる爪も全て叩き折られていた。体の奥でいつまでも脈打つ傷口から血が流れ続けてとまらない。なのにその血液はいつまでたっても外側に滲み出てはこないのだ。
ひくっ、とひゃくり上げるのを合図に来島が必死で留めていたものが決壊し、次々と涙となって溢れでる。いっそ幼子のように泣いてしまいたいと思うけれど、それさえも押さえつけられてるように、上手くできない。俯いて肩を震わせながら絶え絶えに出来損ないの呼吸をするので精一杯だった。
「あーあー、泣くなよ。しょうがねぇな。」
白衣の袖口で来島の頬を拭う銀八の所作は、慰めるように優しい。傷を負わせながらその傷痕を慰撫する、そんな反目した行動は来島をいっそう暗がりへ連れてゆく。逃げ出すこともできずに、代わりに悲鳴に似た声が吐いて出た。
「も、しも…っ、」
もしもほんとうにこのまま月日が過ぎてゆくだけで、もしもほんとうにこの内側に何かが棲みついていて、もしもほんとうに何一つとして希望なんてないとして。
そんな怖ろしいこと、とても最後まで口に出来なかった。けれど可能性を少しでも吐露してしまえば不安の蛇口は栓を失い、ひとおもいに噴出する。まだあれから一度も封を切っていない小さな白い包みを思い出してしまう。押さえつけられた床の冷たさは今も身体に棲みついている。現実の続きを見ることは息もできなくなるほど怖ろしくて。起こったすべてのこと、今現在も持続し続けてゆくもの、なにもかもが世界を遠ざけてゆく。そしてなにより伸ばした手の届く場所には、来島を暴き踏み荒らしたこの男以外誰もいないのだ。当然救いの糸などであるはずがない。わかっている。それでも、
「もしも、ねぇ」
甘い飴玉を舐るように言葉を転がし、銀八はわらう。無邪気な色さえ交えて。ともすれば、幸福に寄り添うように。
「そしたら、お前がおかーさんで俺がおとーさんだな」
そういって、ふたたび来島を抱き寄せた。それは先ほどの乱暴なものとは違う、羽化したばかりの蝶に触れるような柔い抱擁。だからこそ、来島は身じろぎひとつできない。銀八の指先がくしゃりと金糸を巻き込みながら頭を撫ぜるのをただ身体を固く凍らせて受け入れるしかない。
「俺さ、家族とかわかんねーけど、いいおとーさんになるように頑張るよ。どっか遠く、ここじゃない、誰も何も知らないとこで暮らそう。来島のこともこいつのことも俺が全部まもるから。」
ままごとのような言葉は穏やかで、余計に惨たらしさが浮き立った。鮮やかに。どうしようもなく。銀八はなんのこともないように、それこそ当然のように、宥めるように、慰めるように、奪うように、与えるように、呼吸のひとつも逃さぬように、腕の中の少女をいとおしみ、啄ばみ、食んでゆく。
その檻の中で、来島は力なくくず折れ、両手で口元を覆った。嗚咽が止まらない。歯の根は合わずに震えるばかりで。身体の中でとても耐えられないものが渦巻いている。何度吐きだそうとも、空っぽにはならない。来島の意思とは無関係にせりあがり、はぐくまれていく。考えたくない。怖くてたまらない。けれどもう、なにもわからないまま、嘘にはできない。臓腑を抉る嘴から零れた毒の囁きは背骨を駆け上がり、来島のすべてに廻ってゆく。このまま息絶えられたらと願うけれど、止めを与えられることはないのだろう、決して。身体は震えて、寒くてたまらないのに、涙と抱きしめる男の温度だけが、熱い。セーラー服の袖からのぞいた手首には強く残る赤い痕がある。なのに、背中を擦る手は優しくて、表情は、とてもみれない。