悩ましげに小さく息を吐く来島からは甘い香りがただよってきそうだった。目の前のパフェよりもずっとずっと甘い、稚拙な恋の匂い。陸奥はその甘露に誘われて一目散に飛び上がる蜂のような言葉を、紅茶ごと喉の奥に流し込む。なにしろその蜂の尾には毒針が仕込まれているので。
駅に向かう方向とは反対側、学校の裏門からしばらく歩いたところにある喫茶店は微かに不穏な気配がする。奥の席で秘密を啄むようにひそひそと話をしている大学生らしいカップルと黒いノートパソコンに必死に噛り付いている男以外に客はいなかった。
ファミレスのようなドリンクバーはないけれど、コーヒーも紅茶もとても美味しい。来島は今食べている小さなパフェがお気に入りらしくいつもそれを注文する。陸奥も同じくお決まりのようにストレートの紅茶をひとつ頼んだ。甘ったるいものは好きじゃない。

陸奥と来島は二人きりでも際限なく会話を続けるわけではない。ばらばらに全く違うことをしていることも多かった。ただ同じ空間を共有する。陸奥はそれが心地よい。だが、今日においては別だ。
向かいの席でカラフルな雑誌を開いて、頬杖を付いている来島をちらと窺う。真剣に雑誌に食い入るその顔はともすれば不機嫌そうだが、実際のところこれ以上なく上機嫌なのだろう。開いたページにはこれまたカラフルなチョコレートが並んでいる。陸奥はその中の惑星を模したまあるいチョコレートがひときわ魅力的だと感じた。金星はオレンジ色、海王星は白色。地球を模したチョコはやはり青い。青色のチョコレートなんてぞっとするものだが、雲の色と海の色が混ざったそれは不思議と心を惹きつける。
陸奥の視線に気づいた来島が縋るように、ほんの少し身を乗り出した。
甘い物が嫌いみたいだからビターなものにしようかそれともチョコレート以外のものがいいのかだけどお酒が入っているチョコなら受け取ってもらえるかもしれない等など、次々と思いつき想像し頓挫し百面相をあらかた披露したあとに大げさに頭を抱える来島を微笑んでやりたかったけれど陸奥にはどうしてもできなかった。無理無理作った笑みが嫌に歪んでしまうのを恐れた。

「おまんは高杉のことが憎くならんのか」

あと3日後に、悩める来島からの心からの贈り物を貰うであろう男の名前を口にする。傷ついた顔で眉を顰めるのを期待していたけれど、来島は理解が出来ないという表情で理由を尋ねるだけだった。期待はずれであったものの、安堵しているのも事実で、まったくめんどうな女だなぁと陸奥は卑屈に思う。いくらゆるりと逃げても、どうして、と諦めずに追いかけてくる来島をゆっくりとみつめる。淡いリップで色づいた唇がつやつやと光っている。瞳はあのチョコレートのような青い惑星色。

「そりゃぁ、わしが嫌いだからに決まってる」

来島は今度こそ少しばかり傷ついた顔をした。あの男の前でもこんな顔をするのだろうかと考えてみればその想像は容易であり、なにより説得力があった。けれどもそんなものいくら陸奥の胸のうちで持て余したところでどうしようもない話だった。
陸奥は頑固だからなあ、と来島は困ったように笑う。瞳に確かに映った傷痕を隠して。つられるように、陸奥は今度こそ軽く微笑んだ。
お前の好きなものはみんな嫌いだよ、みんなみんなぶち壊してしまいたい。そして壊しまわって砕け散ったその欠片で傷を負うわたしに今のように仕方が無いと微笑んで欲しいのだ。そんな想像を頭の隅で弄んで、息の根を止めるほどの潔さをまだ持てずにいる。
とても大切にしたいのに、時折どうしようもなく傷つけてやりたくなる。そういうものは、笑えるほどに人間的な感情だと思った。生臭い嫌な臭いが鼻につく。焦がれていながら憎んでいる。ぐらぐらと揺すられて、悪酔いしてしまいそう。えずけばさきほど出かかった毒蜂の死骸が吐瀉物にまじることだろう。そうでなくとも身体の中で飼っているそれが乱痴気騒ぎを起して毒の針を心臓に刺し続けている。いつかその毒で死ぬとしたら、そのときばかりはあんな男のことは放っておいてわたしの傍に居て欲しい。その言葉も熱を失った紅茶で流し込んだ。カップはもう空っぽだ。