血を吐くような重い咳がようやく止んで、荒い息を吐く来島の腹部を軽く蹴り飛ばす。もう何度目かも覚えていないが、今回は庇った腕に邪魔されたようだった。白い喉からは細く引き攣れるような苦悶の声。沖田は、この廃墟に足を踏み入れると同時に放った学生鞄から大きな布きり鋏を取り出した。校内の家庭科室からくすねてきたものだった。数ある中でも一番新しくて綺麗なものを選んだ。それを顔の前まで持ち上げると、滑らかさを確かめるように刃を開いて、噛み合わせて、繰り返す。刃と刃の間には、割れた窓の先のまあるい夕陽が入り込んで少し眩しい。しゃきしゃきと鈍い色をした刃が擦れる音と、かちん、と持ち手がかち合う音。いくら噛み合わせたところで、太陽は切り刻めやしないけれど。切っ先は鋭利に尖っていて肉ぐらいなら簡単に突きさせそうだった。女の柔い肉なら尚更。
来島の瞳が、鋏と沖田をとらえる。息をするのも苦痛とばかりに細く短い呼吸を繰り返し、折れているだろう肋骨と散々蹴られた内臓を庇うように身体を丸めながら、それでも憎しみの炎で沖田を焼こうと射抜く。その中の、淡く滲んだ怯えを愛撫するように沖田は唇の端を上げた。
「ブッ刺したりはしねェよ」
そんなことしなくたって殺そうと思えば殺せるのだし。第一道具を使うなんて、無作法だ。いうならば愛とやらに欠けている。まったくもってくだらないことだけれど沖田にとっては重要だ。
身体に刻まれた今以上の悪夢から逃れるように健気にも身を捩ってもがく来島の髪の毛を掴んだ。小さく擦れた悲鳴は皮肉にも心地よい。力で引き寄せて、刃を差し込むと、咎人の首を跳ねるがごとく躊躇無く手のひらを閉じる。耳の後ろから聞こえた凶器の音に、来島の肩が震えた。手元が狂う、と暗に忠告しつつも狂ったところで構わないというぞんざいさで沖田は切り刻み続ける。片側に結い上げられた髪を切り落とすと、髪ゴムがするりと滑り落ちた。劣化したリノリウムに落ちた金色は西日が当たってキラキラと輝く。無残に蹂躪された女の、いびつに短い髪も同じように。
けれど、沖田の眼に映るものは、違うもの。融けるような燈ではなく、心を抜かれそうなほど青い空。二人の男女。男の手が呆れるぐらい穏やかに、長い金糸をすくった。そのときの女の顔といったら。
しゃきんっ、と勢いよく刃を閉じる強い音が断ち切る。仕切りなおすように再びゆっくりと鋏を開いて、閉じて、開いて、閉じて。ああ、と感嘆。鋏を遊ばせる手が、ぴた、と止まった。訪れた沈黙に引かれるように来島の視線が、沖田に向かう。陽は沈み、夜の世界が孵ってゆく。足元に散らばった輝きはもうなくなって、それを踏みにじる、男物のローファー。それでも沖田がみるのは、青空のまま。
「そういえば、あの後」
沖田は平生と変わらない顔つきで、ゆったりと、来島を見下ろす。正しくは、
「手、握ってたよなァ」
正しくは、来島の左手を。