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殴られる、と思ったのは、他でもない、目の前の男――銀八先生が酷く鋭い眼つきをしてみせたからだ。獲物を狩る獰猛な動物の瞳と相変わらぬそれに私は、敵わない、と身を竦めるしかなかった。
しかし上げられた先生の掌は私の頬に触れもせず、ただ頭の上へぽんぽんと二度ほど乗せられただけだった。
「どうどう」
宥めすかしてるつもりなのだろうか。もはや馬にすら通用しなそうな口調で先生は私を見向きもせずにそう言った。
「何するっス…っ」
「そういうわけなんで先生。以後気を付けて下さいね〜」
銀八先生は勢いづく私の言葉を遮る形で相手との間に入り、手をひらひらと振った。
その気の抜けるような間延びした声とは裏腹に、先生の凍てつくような視線は相手に向けられたままだった。
そうして銀八先生は、私が胸倉を掴み上げていた男教師を逃がしたのだ。


「どうしてあんなことしたの」
「どうして…って」
見てたんじゃなかったんスか。
教員用デスクに置かれたマグカップが二つ。そのうちの一つを両手で包み込みながら私はぼやいた。
「あいつがいけないんスよ。あんな人目につく掲示物で間違えるなんて」
「だからどうして」
どうして。訊いているのは原因ではなかった。どうして私が胸倉を掴むまでにあたったのか、その理由だった。
「…笑ったんス。お前が悪いだろうって」
「笑った?」
「…そんな紛らわしい名前をしているからだ、って。『悪いのはお前だ。』…だから」
「だから殴ろうとしたのか」
ふうん、もう一つのマグカップに口をつけながら先生は頷いた。中で揺らいでいるピンク色の液体。うわ。コーヒーじゃないのか。私のマグカップの中は紅茶だったから油断していた。
私が顔を顰めると先生は「あげないよ?」と首を傾いだ。冗談きつい。



「あのね、俺はなにも『殴るな』と言ってるんじゃない」
いや。それもどうなんスか。もっともらしいこと言っている体(てい)だけど。教師の言う台詞じゃないんじゃないんスか。珍しく真面目な顔をして語るものだから思わず先生のマグカップに継ぎ足してあげてたのに。イチゴ牛乳を。
「上手くやらないと」
「つくづく生臭教師っスね」
トン!と乱暴にデスクへイチゴ牛乳のパックを置くと、パックの中でバシャリと波打つ音がした。
「あのなぁ、大事な話だよ?これ重要だよ?例えば覆面して夜道を襲うとか…」
「なんでそんなあからさまな犯罪を生徒に勧めるんスか」
そもそも怨恨の線で動機を疑われるから「上手く」やるという点に関して破綻してる。
「本気にした?」
「別に…」
再度ぽんぽんと頭をなでられる。端から見れば子ども扱いともとれるその仕草に、嫌味がないのが先生の人柄ゆえというか。
「こんなのさぁ、」
鉄製の引き出しが乾いた音を鳴らす。先生はその中から一枚の紙を取り出した。それはさっきの男教師が堂々と張り出そうとしていた誤字書類だった。
口の端で白い棒を揺らしながら、先生は白衣からペンを取り出して何かを書き込み始めた。
「こうしてこう…すれば」
間違った私の苗字に、横線一つ、それと、ソのようなはらいを二つ、付け足した。
「できあがり」
見せつけるふうでもなく完成した訂正書類を私に差し出す。たしかにこれで間違いは訂正はされた。けど。
「こういうの、こじつけって言うんじゃないんスか?」
大胆な理論のすり替えっスね。
「難しい言葉知ってるね〜」
どうでもよさそうにあっさりと流した先生はマグカップを傾けて中身を全部飲み干していた。見ているだけで相当のダメージを受ける。一気飲みなんて、よく出来る。
「でも…殴ろうとなんてしてないっスよ」
「え。ウソ」
じゃあ何しようとしてたんだよ。あんな殴りつけようとばかりの体勢で。
先生はその言葉じりに重ねて空になったマグカップの底をコンコンとデスクの表面にぶつけた。
「…取ってやろうと思っただけっス」沈黙。それは禁忌に触れようとせん者に対する畏怖にも近い。
そう。私は取ろうとしただけだ。
あの中年半ばであろう男性教師の、最もデリケートである頭部の偽りを。
「…殺人未遂だよ?それ一番やっちゃいけないよ?殴るより酷いよ?」
それは問題があるな…と暴力沙汰の誤解よりも深刻そうに先生はうーんと唸って。真摯な面持ちで言った。
「ちょっと職員室に来なさい」
「はい、」
私は極上の笑みで応えた。それはもう、辺り一面花畑に変貌させるくらいの極上の。
ただ。それより他の方法が思いつかなかっただけだ。


だってここ職員室っスよ。