「転ぶなよ」
どうしても開いてしまう、歩幅の差から離れないように。置いてかれまいと半ば小走りに近寄れば、彼は振り向きはしないものの、声を掛けてくれた。 いつもの服では目立つから、と私に着物を勧めたのは彼だった。
無論断る理由もない。赤を基調とした鮮やかなちりめんの着物を、どこからか彼は仕入れて寄越した。
彼の少し後ろ。からからと下駄が鳴る。狭い足の振り幅に忙しく地面へ打ちつけられる漆黒の硬質。これでは思うように身体は動けないし、敵に襲われたとしても上手く切り抜けられるかわからない。不安はあるが、その程度にも及ばぬ力だと主張するのと等しいので、彼には悟られないように歩く。そこの路地から、もし役人が来たら。背に忍ばせた銃器の感触を布越しに確かめた。

鐘が、鳴る。初めは遠かったその音も、近付いていた。
鐘はもうすぐ百になる。音が鮮明になるにつれ、ちらほらと間の抜けた若人が路地を占めてきた。吐く息は夜に冴えて濃く、白い。
浮かれて参拝へ来る客に、どうして紛れようとするのか。私には彼の考えは解らない。
もしかしたら交渉の相手がここに来るのかもしれない。はたまた単の気紛れか。
彼は私に多くを語らない。何も知らされないことも多々ある。そしてただ付いて歩く空けた私を、彼は特に眼差しの色を変えずに視界へ収める。
他の者が供に選ばれないのは、訊くからだ。何用ですかと問うからだ。
私は深くを知ろうとしないから。彼が私をよく呼ぶのは、それだけのことだった。
「…よく似合うな」
「ありがとうございます」
首に巻かれた白い獣の革を彼は指の背で擦りながら褒めた。睫毛を伏せて私はそれに答える。白い長毛の下には昨夜この男につけられた真紫の痣が肩にまで伸びている。首元が上手く隠れたものだなと、柔らかな塊に冷えた鼻先を埋めた。

奥の部屋に掛けられた真っ赤な着物を彼は襖を開けて見せた。名のある染め師のものだろうと思った。良い意味でも悪い意味でも。彼の趣は癖があるからだ。
綺麗ですねと息に混ぜて吐くと、お前が着るんだと男は言った。着せてやるとも言った。
私はそれが血の色にしか見えていなかった。この男が嫌悪する人間という生き物の血の色だ。
次は何処への用ですかと私は問うことなく、ただ頸を押さえて、ぼうっと、帯を持つ男の光ない眼を見入ったのだ。