前日から人をはらっていた。眼球の奥底が疼くのだ。
神経の末端を火花が散ったようにちりちりとした痛みは、熱を伴ったようにも錯覚する。実際は、体温すら上がっていない。薬も効かぬ。それは視界を闇で抉る。毎年、この時期になると息を吹き返したかのように氾濫する。厄介だが、なくなれとは思わない。これは内で渦巻く情念に似ている。いささかそれが培養されているとすら感じる。むしろ心地よささえ滲む。ただ他人にその変化を察知されるわけにはいかない。隙を見せてはならない、ゆえに昨日からこの部屋には誰も寄らぬ。はずだが。

室内に充満する伏せった薄闇を裂くように、開かれた襖から光が差した。気配はよく知るものであったから好きにさせた。何も言わず、言えないのか、襖を開けたままその人物は固まる。
とん、と燻らせていた煙管を盆へ叩きつけると、その華奢な肩が揺れた。入れと促す合図だ。幾年月かで体に染み込ませた。ゆるゆると、部屋の中に伸びていた黒い影が蠢く。襖をそっと、細腕が閉める音。動作に倣いいつも鳴る、銃器の金属音は混ざっていない。
「夕餉は通すなと告げたはずだ、」
閉めきる合間に膳のような物が抱えられるのが見えた。薄い逆光では判然としないが。強いともとれる語気に、咎められた、と思ったのだろう、それを持っていた腕がおそるおそる、という風に畳へ下ろされる。なにか言い噤むのがわかった。急かさずに、待つ。依然 戸惑う姿態に長い金糸が揺れ、きらきらと淡く艶めいていた。
「っ今日、……あの、これ食事とか、そういうものではないんすけど…あ、でも食べ物なんすけど…」
「…なんだ?」
たしなめられる子供のような、あまりにも纏まらぬ物言いに少し声へ穏やかさを意識して答えてやる。すると、いくらか安堵できたのか来島は態を和らげてこれ、と手にしていた膳を差し出した。
「今日、誕生日だって、聞いて…それで」
そこには洋菓子が乗っていた。厚い円状の、真白い表面に埋もれるようにして置かれた細長い板には小綺麗な字で「おめでとうございます」と書かれていた。こいつの字だ、とすぐに認識できた。書面で見たことがあった。
己ですら頭から抜け落ちていた日を「誰から聞いたのか」問おうとしたが、酒の席で答えたやも知れぬと曖昧な記憶がふと浮いた。

己の一声で、誰一人として寄り付かなかったこの部屋へ。それだけのために、こいつはわざわざ。足を運び伏し目がちに機嫌を窺ってまで。
自然口の端があがる。こうべを垂れたままの来島の髪へ触れた。さらさらと柔らかな指通りのよさを味わい、頬へ。来島の透く空色の瞳が瞬いた。
「…あっ、そうだ、切りますね…」
「…あぁ。…お前も食えよ」
さっと身を引いて、控えていた刃で来島は円を切り分ける。天人の嗜好品。無意識か。それもこいつらしい。
絶え間なく注がれる視線に刺されてか来島の皿を持つ手が不安定さを生む。落としそうだな、と思うと同時にそれは落下した。
「あ…」
来島の脚へ落ち、畳へ転がりぐしゃりと潰れた。脆すぎて形を保てなかった祝いの品。その様がとても相応しいものに思えて目を細める。来島はただ崩れた菓子を捉え狼狽するのみだ。

「…っ、晋、助様…っ」
大腿に白くこびりついている、どろりとしたそれを指で拭い取る。腕を伸ばしただけで肩を揺らした来島は、その手を止められもせず声を震わせる。ゆらぐ青褪めたような玉の瞳は望んでいない、と訴えているようにも見えた。
「…甘いな」
指先についた白みを舐めとると口内に慣れない味が広がった。味覚を侵されながら来島へ向けば、もはや原型を留めぬ残骸を皿へ片付けようとしていた。ぐちゃり、と塊に来島の白い指が埋まる。興の尽きない奴だ、と気を擡げた。

舌の上になお残る甘さは鮮烈に脳裏へ刻まれている「他人」を意識になだれ込ませ、黒々とした靄がかる殺意をわかせる。こう来島が怯むのもわけはない。微量な殺意だろうが肌で感じられるほどに、命を奪ってきた。こいつも俺も。
眼底の疼きと相成る溢れ出しそうな憎悪をすりかえ、来島へ触れて情愛の眼差しを寄せる。そうして見透かされたおざなりの戯言を吐いて、一夜の座興はまた腐る。