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「悪い夢は終わりだ、帰ろう」
そう優しく告げる男に誰もが動揺を隠せなかった。
ただ一人、梓だけが目を細めて男ーーーーーヨリの父親、つまりティキの父親でもある男黙ったままを睨みつけている。
「ヨリの…父親、…?」
「お母さんにも会いたいだろう?僕と一緒に行こう。
もう戦わなくていいんだよ」
「戦わなくて、いい…?」
「そう。お前は小さい頃から頑張った。よく自分を守ったね…生きていてくれて、ありがとう」
「っ、」
侵食してくるかのような声にぞくりと身を震わせながらもヨリは父親だと認識してしまった男を否定することが出来ない。
もう二度と会えないと思っていた両親。目の前で母が死んだのも何となく覚えている。
ーーーーあ、れ?
ふと感じた違和感に呼吸を詰まらせると、アレンとラビの次の言葉がそれを助長させた。
「ラビ、あのアクマがヨリの父親だというのは本当ですか?!」
「いや…オレも知らない、んさ。オレがヨリと知り合った時には父親はもう死んでるってツェリが…」
「ーーーっ!!」
ラビの言葉を理解する前にヨリは目の前の微笑む男をドンッと力任せに突き飛ばした。
血が足りずくらくらし始める頭を何とか働かせ、焦点の定まらない目を彷徨わせる。
「え…だって、父様と母様は…あたしやjr.を…可愛がってくれていて……、え…?」
そこで初めてヨリは違和感を疑問に変えた。
今や殆ど無い両親の記憶。
何故、自分やjr.を可愛がっていたと言い切れる?
母がjr.と接していた記憶はあれど、そこに父がいたなんて記憶のどこにもそんな場面は無いのに?
ーーーーじゃあ、父は、いつから一緒じゃなくなった?
「…ヨリ、貴女ツェリに記憶を改竄されているでしょう?」
「改竄!?」
「多分…。いつからか分からないけど、心のどこかで気付いていて知らないふりをしてたんでしょう?
―――
「――――っ!!」
ヨリが目を見開いた瞬間、ざわっと空気が震え一面の景色が移動したかのように変わった。
どこかの森の中、近くにぽつんと二階建ての木造の家が木々に囲まれて建っていた。
結界のようなものは相変わらず存在するので身動きを取る事は出来ないが、ずっと離れた森の先に街のような集落が見える。
「ここは…どこであるか…?」
「また移動した…?」
「移動はしてないわ。…ここは多分過去で、ヨリの家だった場所」
「!」
はっと視線を滑らせると側の樹に背を預けて腕を組んだ梓がこちらに目もくれず先を見つめていた。
「私もツェリに呼ばれた時にはここに住んでいたみたいだからいつから住んでいたか知らないけど。…多分jr.も知らないんじゃないの?」
「…確かに…オレが知ってるヨリの家って、もっと街中にあった筈さ…」
『ヨリ!!!?ヨリ!!!』
「「「「!!!」」」」
家の扉がバンッと開かれ、赤色の髪の女性が転がるように飛び出してくるとピクリと肩を跳ねさせたヨリがぽつりと呟く。
「かあ、さま…?」
「ツェリっ?!」
『ヨリ!?どこ!!?』
「え、ヨリならここにいますよ!」
「…何故ここを見せられているか分からないけど、過去を映しているだけだからツェリに私達の声はおろか、姿も見えないわ。ここは12年前の世界で、過去に干渉することは出来ない。文字通り、過去の幻影」
「な、何故ヨリを探してるであるか?12年前ならヨリはまだ…」
「5、6歳程度の子供ね。…実を言うと、私も過去の世界を覗いてみるのは初めてだから、これからどうなるかは知らない」
「テメェの仕業じゃねえとでも言いたげだな」
「そうよ。これは私の仕業ではない。そもそも、私を含めて今この方舟にいるノア達は過去を見る能力なんてない。千年公もね」
「あ…そう…だ…」
ヨリはゆっくり顔を上げて必死に自分を呼び続ける赤髪の女性の背を見上げる。
「あた、し…連れて…行かれたんだ…」
「連れて行かれた…?」
「連れて、行かれて、それから」
ぶわりと大きく風が吹き、ラビ達は思わず目を瞑る。収まった頃にそっと目を開けると今度は森の中ではなくどこかの大きな建物の中だった。
かろうじて何があるか分かる程度の暗さで、中央舞台のような場所で明かりに晒されるヨリがいた。そこに向かって大人数を集約できる座席が並ぶ大きなホール。
先程方舟でヨリが梓と戦った場所に酷似しているのでは、と一同が思ったところでひくりとヨリが声を引き攣らせた。
「い…嫌…だ…」
「え?」
「嫌…っ、見たく、ない…!!思い出したくない!!…嫌…!!」
「ヨリ!!」
「……」
場所に覚えがあるのか室内を見渡してヨリがカタカタと震え出す。ここまでヨリが弱り切った姿を見せた事は今までなく、アレンやリナリーはおろか、ラビや神田でさえその姿に言葉を失った。
梓だけが難しい顔をして黙ったままヨリを見つめている。
刹那。
ドンッ!!
ギイイイィ、ガンッ!!!
「「「「!!!?」」」」
「ヨリ!!」
「………」
「嫌っ…嫌…!!」
「ヨリ逃げろ!!」
ヨリを囲むように地面から獣用の大きな檻が現れ、瞬く間にヨリを拘束した。
既に半狂乱状態だったヨリが更にパニックを引き起こす。誰が呼びかけてもここではないどこかを見ているヨリにその声は届かない。
「…いや…」
ざわりと震えた嫌な空気が辺りを満たす。幼い声に瞬きをした瞬間そこにいたヨリの姿が消え、檻の中にはヨリよりも随分と幼い紅の髪の子供が身体を縮こませ涙を浮かべて震えていた。
「あれ、は」
「ヨリ!!」
「迂闊だった。全部あの男の仕業だったってわけね。…最初から」
「梓?!」
「……これは過去に実際起きた事の再現。さっきも言ったけどjr.がどれだけヨリに…あの幼いヨリを呼んだところであの子にこちらの声は届かない。
見ているしかできないのよ」
「っ」
「私は現場にいたわけじゃないけど、何があったかは予想がついてる。
外れて欲しかった予想だけど、どうやら外れなかったみたいね。」
「どういう…」
アレンがオウム返しに問いかけようとした矢先、カツン、と靴底を響かせて子供のヨリが閉じ込められた檻の後ろから艶のある黒いシルクハットを被った一人の男が現れた。
舞台の淵まで歩いた男は右手でシルクハットを取り仰々しく一礼してハットを被り直す。
ラビ達の視線が鋭い物に変わった。
「アイツさっきの…!!!」
「ヨリの父親だって言ってた…」
「ladies & gentleman」
マイクが無いにも関わらず室内に響くような大きな声で男は客席を見渡した。
気が付けば客席には派手な仮面をつけ高級そうなドレスコードを身にまとった老若男女と思しき人間達が所狭しと座っているではないか。
「大変お待たせしました。
今宵は100年に一度かどうかと言われている悍ましく、畏怖の美しさを纏う清き
準備に少々お時間を頂戴致しますが…ここにお集まり頂いた黄昏の選ばれし会員の皆々様、今宵はごゆるりとーーーー
ワァァ、と観客席からの歓声と共に大きな拍手が木霊する。
檻の中で訳も分かっていない幼いヨリが震えながら耳を塞いで涙を溜める中、幼い子供を躊躇いも無く見世物にしているこの会場に皆が嫌悪感を抱く。
「おい女、この結界を解きやがれ…!!」
「…ダメよ」
「黙って見てるくらいなら俺がアイツの所へ行く。
さっさと解け!!」
「神田…!!」
「ダメよ。…言ったでしょう、過去に干渉は出来ない。
…正確には、乙女の儀式に必要な物を過去の記憶で代用しているんでしょうね。今、貴女達が下手に今のヨリに干渉してしまえば貴方達が危険なの、過去から戻るまでは何もできない。
…死にたくないでしょう?」
そこまで面倒を見るつもりはなかったのだが、千年伯爵の依頼ならともかく梓の目的は本当にヨリだけで、他のエクソシストに興味はないのだ。彼らが勝手に動く分にはどう動いても構わないが、彼らに怪我をさせないのはそのヨリへの敬意でもある。
今にも暴れてしまいそうな神田を宥めるように告げると、梓は"でも…"と小さく続けた。
「…代わりに1つ、話をしてあげる。」
「あ?」
「本当は乙女に関してあまり口外しないのがノア達の暗黙の了解でもあるんだけど、…あの子自身も知らないあの子の事を、貴方達は知っておくべきなのかもしれない。」
ガタン、と建物内で何か大きな物が動いたような音にステンドグラスの天井を見上げた梓は目を細めて静かに話し始めた。
「ヴァルキリーや乙女とか、今のあの子は色々な呼ばれ方しているけど、"乙女"という名称には二種類存在するわ。」
「どういう…?」
「…ノアの一族には北欧神話に登場する
「「「「!!!」」」」
「勝利の女神を比喩してヨリのノアメモリーを引き継いだノアをヴァルキリーあるいは乙女と呼んでいるんでしょうけど、そのジャンヌ・ダルク自身が当時メモリーを引き継いだノアだったから、というのもあるわ。
あの子は史実の通り、神の声を聴き、フランスを勝利へと導いた。それは覚醒前の出来事だけれど。」
「ジャンヌ・ダルクって魔女裁判にかけられて処刑されたって…」
「…そうよ。ノアである前に魔女だったから。
でもジャンヌは魔術を使ったわけじゃない、神に導かれるがまま従って、フランスを勝たせたに過ぎないのに。フランスの勝手な理由でジャンヌは抹消された。」
つい、と壇上の男を鋭く睨んだ梓は言葉に殺意を滲ませた。
「そして…黄昏の者が呼んでいる"乙女"は始祖イヴを指しているの。」
「始祖…イヴ…?」
「聖書の…?」
「そう、アダムとイヴ。
…聖書によると神に創られ、愛されていたアダムと、その彼を一人にさせない為に彼の肋骨から創られたイヴ。
でも、エデンの園にある禁断の果実を口にしてはいけないと言われていたのに、蛇に唆されたイヴはそれを食べてしまい、意志、思考、感情ーー欲望を手にしてしまった。
片割れであるアダムにもそれを食べさせてイヴと同じものを手に入れたアダム。神の支配から逃れた二人は神から追放され、ノアの、人間の始祖となった。
聖書には簡単にしか書かれなかったから殆どの者は知らないんだけど、この話はもっと深いものなのよ。
…そもそも何故蛇はイヴを唆したのだと思う?何故蛇は果実を食べても死なないと、問題ないのだと断言出来たのだと思う?何故神の支配下であるイヴは言いつけを破って罪を犯してまでその実を食べたのだと思う?
……目に見えるもの全てが真実とは限らないのに、どうして聖書にはあんな風に書かれているのかしらね。」
ゴゴ…と小さな地響きと共に天井が中心から花開くように動き出した。かなり時間をかけてほんの少しずつ夜空を覗かせる。
「…そもそもイヴは厳密にいうと神から創られたのではなくアダムの骨から生み出された存在、アダムや他の生き物たちと比べて完全な神の支配からはほんの少しだけど緩い者だった。そして、蛇に唆されて果実を素直に食べてしまう程の好奇心と蛇への信頼があった。…この時点で既に矛盾していた、神の完全な支配下ではなかったと。
…そして、イヴの余った欠片で作られた蛇もまた神の完全な支配下ではなく、その矛盾点に気が付いていた。」
だから食べさせたのだ、神の支配下から彼女を逃がす為。
「…自分が愛する、イヴに色々な事を経験させ、見聞きさせ、幸せになってもらう為。
そして、果実を食べたイヴもまた、蛇のその愛に気付き、蛇を愛してしまった。」
しかしそれは怒りを買ってしまったのだ。ーーーーーーー神ではなく、実を食べたアダムの怒りを。
「アダムは神に"蛇は無知なイヴを唆して禁断の果実を食させ、イヴもまた自分にその実を無理に食べさせた。"と。"イヴは自分の一部であり片割れだから、彼女の犯した罪は自分も背負おう。"…と。
それを了承した神はアダムとイヴを楽園から追放した。
イヴは嘆いたわ。蛇の愛も自身の蛇への愛にも気が付いたのに、アダムによって引き離された。ーーーーアダムの方がイヴより先に果実を食べたのにね。」
「え…!?」
「………そ、れは」
「…アダムのイヴへの愛は異常だった。前妻のリリスも手元に残した上でイヴを囲った。もう楽園に戻れないイヴは蛇への幸せだけを願って生きて、生を終えた。」
「…まるで、それを見て来たように話すんだな。」
イヴの物語を語り終えた梓に神田が静かに告げる。
ちらりと神田に視線を移した梓は瞼を震わせて遠くのヨリに視線を逸らした。
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