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真っ白な四角の空間。手首に繋がり伸びている点滴とチューブ。もうこれだけでも気が滅入ってしまいそうな、そんな世界。でも、今日は違う。今日はその中に赤色が入った。私の大好きな大好きな、赤。何よりも清らかで安らぐ赤、リリー。
彼女が私に会いに来るのは一ヶ月振りだった。先月の夕方に突然来た「暫く行けそうにない」という電話にとても寂しく思った反面、些か不思議にも思った。何故来られないのだろう、何故あんなに声が沈んでいたのだろう。もしかして嫌われたのだろうか?日に日に窶れてゆく私を気持ち悪く思ったのだろうか?次々と降り積もる疑問と不安。だけどその後リリーに電話を掛けたり手紙を出したりなんてことは出来なかった。怖かった、彼女が私から離れていったという確証を手にしてしまうのが。ならば曖昧にしてしまった方が良い。リリーは忙しくて来られないの、なんて。そうやって自分で自分を言い聞かして。

それで結局一ヶ月が過ぎた、三日前の朝。リリーから電話が来た。「明明後日会いに行くわ」、とそれだけ言って。三日後、つまり今日。でも素直に喜べなかった。なんだかいやな予感がした。彼女の連絡が来てから今日までの間、私の病室は今までにない変な静寂で満ちていた。そう、まるで嵐の前の静けさのような。灰色の雲が私の心に広がる空を覆い隠す。こういうときに限って、その類いの勘は見事に当たってしまうのものだ。


「子供が、出来たの」

ぽっこりと小さく膨らんだリリーのお腹。その中には新しい生命が宿っているのだと、嫌でもわかるくらい主張していた。大方、あの茶色いくせっ毛の人との間の子だろう。ユニークで少し落ち着きのないそんな男性だったのを覚えている。

「そう、そうだったの」

腹の底から出た自分の声は、低く冷たかった。それは病室に静かに響いて溶けてゆく。
おめでとうなんて、私は祝福を表す台詞をその声色に乗せられなかった。それもそうだろう。私はすっかり弱りきっていた。心身ともに。

胎内に子を宿すということは喜ばしいことでお目出度いこと。普通であるならば、私は真っ先に笑顔で喜びを示さなければならなかった。でも私に祝いの言葉は吐けない。私には無理だ。だって私がそこに孕んでいるのは、新しい生命とは紛れもなく対象にある、害なのだから。


リリーが私に会いに来れなかった理由、それは私を傷付けないためだったのだ。成る程、彼女は本当にどこまでも思い遣りのある人間である。しかし、だからといってその心遣いが嬉しかったわけではなかった。ただただその事実が恨めしかった。私の子宮に潜んでいる死神と、リリーの子宮に身籠っている望まれた命。皮肉な巡り合わせだ。

私、いつも辛かった。精子を受けなかったために定期的にくる生理とかそれに伴う特有の痛みとかを感じる度に自分が確かに女で、生体理論上で愛せるのは異性の男であるということを思い知らさせられて苦しかった。リリーのことを思うその時ごとに下腹部がずぶりと疼いて、「おまえは同性である人間を愛してはいけないのだ」と叱責されている気分だった。でも、そんな簡単にこの気持ちを断ち切れられずに随分時間が流れた。そしてそれを咎めるかのように私は病に罹った。粮てて加えて最も憎かったあの子宮の。


「ねえリリー、私、あなたのことが好きだったのよ」

涙が堰を切ってぼろぼろ零れ出てくる。情けない泣き顔を見られたくなくて、両の手で顔を覆った。それでも長い間の闘病生活で痛々しくなってしまった骨と皮だけの手では、あまり意味がなかったように感じた。寧ろ更に弱々しく見えているかもしれなかった。

言うつもりなんて、なかったのに。この気持ちは誰に悟られることなくあの世まで持っていくつもりだったのに。なんで言ってしまったのだろう。死に際になるとこうも決心が揺らいでしまうものなのだろうか。それとも私がただ意志の弱い人間だからだろうか。今更何を嘆いても遅い。もう、疲れてしまった。告げてしまった以上、あの翡翠の瞳を真っ直ぐ見ることは許されない。私は彼女を裏切った。最後の最期で、私は自らの口から発せられた言葉で彼女の友人であることを辞めた。もう戻れない。戻れないのだ。何処かの悲しい恋愛話の登場人物みたいに「出会わなければ良かったのに」なんて思いたくはなかったけれど、全てが全て、遅すぎた。

だけど、きっとリリーは優しいから私が死ぬその直前まで手を握ってくれるのだろう。そして死んだ後はあの柔らかそうな唇を私の瞼に寄せるのだ。温かいリリー。しかしその慈悲深さが何よりも無慈悲で惨たらしいものなのだということを、果たして彼女は知っているだろうか。


あと暫くしてしまえば、この肉体はヒトからモノに変わる。そして人々は私の存在を記憶へと移り変えていくのだ。それはそれは指の間をすり抜けてゆく砂のようにさらさらと、滞りなく。そう考えてから私は先程口走ってしまった本音を、再び悔やんだ。嗚呼、なんて愚かな。今の自分はさぞ汚ならしくみじめに見えるだろう。心の内に留めることが出来たのなら、私は彼女の心で綺麗に逝けたであろうに。


孕んだ夢はさぞ美味であろう


(しかしそれは、猛毒でございました)

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