ばっ、と勢い良く机から顔を上げる。時刻は五時半ちょっとすぎ。教室の窓を見れば、もう日は完全に落ちようとしていた。
やってしまった。
今日までの課題の存在をすっかり忘れてそのために居残りをしていたのに、ついうとうとしてしまって寝てしまった。もうこんな時間だし、今日中の提出は無理だろう。また日を改めて出直すしかない。そう思い、ほとんど文字が書かれていない白いノートを閉じて、筆記用具も鞄に仕舞った。そしてポーチから小さな鏡を出して確かめる。顔に腕を押し当てていた跡や涎など、寝ていた痕跡は付いていなかった。
「あれ、なまえちゃんだ」
心臓が跳ね、反射的に声がした方へ視線を向ける。…この声は。間違いない、彼だ。
「お、おいかわ…」
素っ頓狂な声はあげなかったが、間の抜けた返しになってしまったことをちょっぴり後悔した。しかし、整った顔立ちのクラスメートが日頃見慣れた制服姿のときとはまた違った雰囲気に吃驚したのは事実だった。真っ白なユニフォームに、汗の流れた跡がある首筋に、少し崩れている髪型に、不覚にもときめいてしまったのだ。一番に感じたことは、鏡を見ておいて良かったということ。好きな人にだらしないところを見られたくはない。数秒前の自分よ、よくやった。
「もしかして勉強?偉いね〜」
爽やかな笑顔を向けながらこちらに近付いてくる彼にどぎまぎしてしまう。実は半分寝てました、なんて言う余裕もなく、あはは、と適当に笑っておいた。
三年間ずっと同じクラスで、どういうわけだか席替えを何度してもほとんど近い座席。及川は格好良くて女受けも良いから(他校にもたくさんファンがいるらしい)、面食いの女友達にもよく羨ましがられるほどだ。
「そういう及川は、何か忘れ物?」
相も変わらず表情を崩さないで、「ご名答」と言った。
彼の机の中から出てきた分厚いリングノート。表紙の角は少し摩りきれていて、なかなか使用感のあるノートだった。
多分、バレーに関するものなのだろう。及川はバレーがとても上手だと聞いた。この前も、名前も知らない後輩の女の子たちが甲高い声をあげながら騒いでいたのを覚えている。
「やば、そろそろ行かないと岩ちゃんに怒られちゃう!」
私は及川のバレーの試合を見に行ったことがない。部活練習にさえも。彼とはクラスの女子の中でもそこそこ話が合う方だと思うし、仲も良い部類に入るだろう。過去に何度か試合観戦も誘われたこともある。もちろん、行きたかったし少しは期待もした。でも、行かなかった。と言うより、行くのが怖かった。
及川に群がる馬鹿な女と、一緒に思われたくなかった。
私は彼と“仲が良くてちょっと腐れ縁のクラスメート”という立ち位置に優越感を抱いている。我ながら性悪な奴だとは思うが、ただの能無しスッカラカンな人間よりもずっと対等でいられるしずっと有利だと考えているからだ。
それ故に、彼の応援に行くのは躊躇った。だって、行ってしまえば阿呆っぽい子達と同じになってしまう。その日から、及川の私への印象が“気の合うクラスメート”から“自分を取り巻くその辺の女”に降格してしまう。この境遇を失いたくない。そう思うと、どうしても行けなかった。
「じゃあ、気を付けて帰るんだよ、なまえちゃん」
にっこり笑ってから私に背を向ける。制服のときよりも背中が大きく見えた。がっしりした体格。そこには普段では想像もしていなかった風格があった。
私の知らない彼が今、ここにいる。他の女の子は知っている。でも、私は知らない。見たい、いつもと違った彼を。もっと知りたい、彼が心の裏に隠している本当の彼を。
「及川」
「ん?」
胸の奥から次々と沸き上がる欲望。誰にも言えずに鬱々と過ごした日々。簡単なことだった。口にしてしまえば、どれだけ楽になれるだろう。
しかしその代償は───?
ふと過った未来に足が竦む。だから駄目なんだ。だから私は変われない。今までもそうだった。
あと半年もすれば、私も及川も卒業。きっと私はこれから先もずっと何も言えずに別れを迎えるのだろう。そんな現実味を帯びた予想に、溜め息を吐きたくなる。
「……また、明日ね」
少し間を置いた私に、彼は綺麗な白い歯を見せてひらひらと手を振った。
嗚呼、「部活頑張ってね」という一言を言えない自分が、どうしようもなく恨めしい。
赤い糸の境界線
(せめて越えられる強さが欲しかったよ)