大嫌いな優しい人 | ナノ
嗚呼、苛々する。先程まで穏やかだった感情は、そんなもの最初からなかったかのように激しく入り乱れている。心無しか胃も痛い。そしてそれは、私がこの事態に酷く動揺しているということを示していた。強く掴まれた手首と気分を不快にさせた元凶となった男の顔を交互に見れば、そいつは気まずそうな表情をして少しだけ力を緩める。

「……で、なに」

「あ、いや、なんていうか…その」

目の前にいる私の大嫌いな男、橘真琴は言い難そうに視線を反らす。無意味に口をぱくぱくと開け閉めさせている姿は、なんだか水中に住んでいる魚みたいに見えた。

なんなの、こいつ。言いたいことがあるならさっさと言って欲しいと思った。そう念を押すようにじろりと睨むが、彼は一瞬怯んで、それからぎこちなく曖昧な笑みを浮かべてみせるだけだった。…もしかして、何もないのに私に話し掛けたの?だとしたら馬鹿馬鹿しい。そして同時に不愉快だと思った。


事の発端は数分前に遡る。下校時刻が過ぎ、職員室に提出物も無事出したから家へ真っ直ぐ帰ろうとしていた。しかしそれは思いも寄らない出来事によって阻まれた。前方から大嫌いなクラスメートが現れた。そこまでは良かった。問題なのはここからだ。私は素知らぬ顔で擦れ違ってしまおうと思っていたのに、何故か声を掛けられ手首まで掴まれてしまった。これには流石に驚き、また当の本人も吃驚したようだった。そうしてから双方とも何も発せず無駄な時間が経ち、現在に至る。今この廊下に私たち以外の人は居ない。その事実を考えるだけで気持ちが悪かった。


「用がないなら帰るけど」

「え!ちょ、ちょっと待って!」

橘真琴は緩めた手に再び力を加えた。私なんかよりずっと大きくて固い彼の手の平と指が手首に食い込む。肌の下にある血管が押し潰される感覚をぼんやりと感じる反面、一向に離してくれそうにない橘真琴という存在を鬱陶しくも思った。もう一度刺すような眼差しを向ける。しかし彼はもう気後れなどしなかった。ただ私を見据えていた。


「みょうじさんと、話したことなかったから」

その台詞を聞いて、心底呆れた。私が彼と話したことがなかったから?だったら何だと言うのだ。別に話すことなんてない。だから今まで言葉を交わさなかった、そうだろう。
訝しげに眉に皺を寄せれば、彼は狼狽えて顔色を変えた。

「えーと、…こ、こうやってみょうじさんと喋るの初めてだなー、って…」

橘真琴は目尻を下げて笑った。当たり前だろう、私はずっと避けてきたのだから。わざわざ嫌いな奴と話す人なんて居ない。そして理不尽に睨んでくる奴と話したいと思う人も、もちろん居ないだろう。なのに、この男は抜け抜けとこちらに笑い掛けるのだ。それが無性に憎らしく感じる。


「私、あんたのこと嫌い」

そうやってへらへらしているところが嫌い。そうやって善人気取りみたいなところが嫌い。そうやって嘘ばっかり吐いて取り入ろうとするところは、もっと嫌い。そう言えば橘真琴は目を大きく見開いて、まるで石にでもなってしまったかのように強張った。未だに掴まれた手首から緊張した空気が伝わる。

今まで私が抱いていた感情を、この男は知らなかったのだろうか。まさかそんなはずはない。だって目があってもすぐに反らすか睨みを利かすかのどちらかで、私が嫌悪感を隠さず表していることは明らかである。
そうであるはずなのに、何故この男は戸惑っているのだろうか。頭ではわかっていたけど、実際面と向かって言われると思った以上の打撃があるのだろうか。

理由が何であるにしろ、こういった輩にははっきり言っておいた方が得策なことに変わりはない。そうしなければ、きっと明日からあの癪に障る笑顔で挨拶をされる。それだけは御免だった。


「手、いい加減はなして」

静かにそう言い放てば、橘真琴は自由を奪っていた手をゆっくりと降ろした。表情は伺えない。私は肩に掛けていた鞄を持ち直し、そのまま橘真琴の横を通り越す。日はすっかり暮れていた。
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