01



どうしてこの愛しさは消えてくれないのだろう
―――かたり
と、音が鳴る。
耳に届いていたがそこに意識を遣る気力もなく、俺は微塵も身動きを取らなかった。
続いてギシッと踏みしめる音が鳴り、床の老朽化が窺えた。
そういえば床鳴りが酷い所があるんだった。親父が張り替えないとなぁと言っていたっけ。
って、どこの床だよ。場所、聞きそびれてたなぁ。
何にしろ床が抜けては惨事だし、次の休みにでも直すか。
床…どこの床。どの部屋のだっけ。

「なぁ親父、軋みが酷い床ってどの部屋だったっけ。直すの、すっかり忘れてたわ。誰かが怪我する前にやらねぇとな。うち、貧乏って程でもねぇくせに、仕事にかまけてそういう所お座成りだよな」
はははっと乾いた笑いを零す。背後に、躊躇う人の気配が漂った。
「親父…早ぇよ」

―――逝くのが。

とは、口には出せなかった。
口に出す前に喉がひりつき、鼻の奥がツンとして痛かった。
声を出そうとすると唇が戦慄き、堰を切ったように泣き出しそうだったので真一文字に引き結ぶ。
長男の俺が泣き暮れるわけにはいかなかった。
今まで散々母や弟に家を任せっきりにし、親父に甘え忍術学園に通わせてもらっていた。
愛されていた実感はある。いや、今も愛されている実感はある。
あの日、親父の最期に間に合わなかった薄情な俺を誰も責めることは無く、母も弟も、絹代も絹代の親父さんも俺を慰撫し迎え入れてくれた。

それからは近所への挨拶回りと葬儀の準備…といっても、俺のところは村で土葬するくらいだからそう手の込んだ埋葬ではないが、滞りなく運ぶよう手配し、お得意先にも文を認めた。
そして、そこには当分の間俺が代理を務めると言う旨も。

その一言を書く時、どうしても指が震えた。
硯の中で筆か泳いで上手く墨を刷けず、切り損ねた墨が跳ねて半紙に点々と黒い染みを落とした。
その染みはまるで俺の心の深淵に淀む寂寞の想いが表面化した様で、白い半紙を真っ黒に染め覆って行く錯覚がしたものだった。



「…陽、」
遠慮がちに絹代が俺の背に言葉を掛ける。
「うん。親父に最期の挨拶していたんだ。もう行く」
顔を俯けたままよいしょ、と腰を上げ生前親父が臥していた床の部屋からゆらりと出て行く。
―――ぎしり
と、また床が鳴った。

(あぁ、まるで俺の胸の軋む音の様だ)

ここ数日、突然の不幸ではあるが、小松田さんに手紙を押し付けただけで何一つ連絡せず学園を休んでいることになる。
葬儀の事や業者仲間への知らせで手一杯だったからと言って甘んじて良い事ではない。
これから一層親父の代理としてしっかりしなきゃなんねぇってのに、と思わず苦笑が零れた。
「学園に戻る。今後の事、話して来ないとな」
不安げに俺を見上げる絹代の頭をぽんぽんと撫でて小さく笑みを向ける。
いつもなら「私の方が上なのよ」と、子ども扱いに拗ねた様子を見せるが、今は大人しくされるがままだった。
「ちょっと行ってくるわ」
そう言って絹代の横を通り抜けようとしたら、ぐんっと袖を引っ張られた。
「無理に笑わないでよ」
剣のある言葉とは裏腹に、大粒の涙が絹代の瞳から零れる。
「あんた、一度も泣いていないじゃない。私の前でまで我慢しないで」
震える声で、諌められた。

「私たち、許嫁になったんだから」
そう言って、絹代が俺を抱きしめようと両腕を掲げた。


[ 31/56 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]