01



名もない感情を持て余す
しぶしぶとだが、田村を筆頭に下級生が食堂へと移動し、室内には潮江と日向の二人きりになった。
「文次郎、ありがとう」
今まで田村が座っていた席に腰を落ち着けた日向が潮江に振り向いてそう告げた。
「あ?何がだ」
帳簿をペラペラと捲り、声だけで答える。
「あっさり引き下がってくれてありがとう。文次郎の事だから『甘えた事抜かすなバカタレ!こんな程度でへばるなんぞ鍛錬が足りんのだ!』って激怒するかなって思ってたから」
くくっと、その様を思い描いて日向が笑う。
「ふんっ、残りの書類に目を通すのと、検算するくらいなもんだったからだ。お前に礼を言われる筋合いなどない」
無骨な態度で言うも、根が優しい事を知っている日向は「うん」とだけ答えた。

それからしばらくは、ぱちぱちぱちっと算盤の弾かれる音だけが響く。

日向の成績が散々なものなのは試験用紙で知ってはいたが、組が違う為、実際の座学中での様子をほとんど見た事の無い潮江は、その淀みない算盤捌きと帳簿との照らし合わせ、そして最終的に潮江が目を通しやすいよう纏め直す気遣いにしばし見入った。
「…お前、算盤強かったんだな」
ぼそっと、潮江が感嘆して呟く。
「ん〜?だから言ったろ、農業の息子嘗めんなよって」
そう言ってカラカラと笑った。
「いや、可笑しいだろその台詞。農家は田畑専門じゃねぇか。仲介の商人ならまだしも」
「あははっ、だよな。いや〜うちはちょっと変わっててさぁ」
口と手を器用に別々に動かしながら日向が続ける。
「簡単に言うと、商業にも介入してんの。だからこういうのも一通り叩き込まれててさ。俺は十になるのを境に忍術学園へ来たから半端だけど、弟は学び舎に通ってみっちり仕込まれてるよ。学問は勿論の事商売のいろはも、家で農業のいろはも」
ぱちぱちぱちっと、算盤の音が声に溶ける。
「俺はその弟を筆頭に裏から支えたいから、ここで忍術を習っている。ここでは忍としての他に、溶け込めるようあらゆる職業についても知る事が出来るだろう?向き不向きは別として、家業だけだと視野が限られているから」
そういえば、日向の最終目標が忍になる事では無かった事を思い出す。
いや、それでは語弊がある。
城仕えや戦忍を生業とするのではなく、忍として得られる情報を活かしつつ実家の補佐をしていきたいのだと言っていた事があった。
「意外だな。お前、案外考えていたんだな」
いつもの情けない様な調子の振る舞いしか見ていない為、その差異に潮江は少々複雑そうに顔を歪めた。
「ひでぇ文ちゃん、そんな顔する事ないだろ〜」
苦笑を浮かべた日向が顔を上げた事により、室内で二人きりになってから初めて視線が交わる。

―――どっ…

と、鼓動が波打つ。
(こいつは、こんな顔をした奴だっただろうか)
いつにない日向の静かな様相に、潮江は一瞬戸惑う。
普段のへらりとした表情や何処か真面目から反れた姿とは違い、今相対している日向の姿は、同級よりも上の齢を感じさせるものだった。



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