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「…逃げないで」

遠慮しつつもきっぱりとした声。
その鼓膜を震わせるような吐息に似た囁きに、僕の身体は自由を奪われたように動きを止めた。
「ごめんなさい…そうさせてしまう態度を取り続けていたのは俺の方なのに、こんな言い方」
ふっと目を伏せ、今度は鴻が詫びる。
「…失礼しました」
驚いた僕が止めに入るよりも早く上げられた鴻の双眸に、僕は心ごと視線を絡め捕られる。

「以前申し上げました通り、触れられる事があんなにも胸を苦しくさせるものだと知ってしまったら、俺は今まで平然と出来てきていた事が、“貴方と”となると、どうしても恐くなってしまうんです」
そこで言葉を区切ると、鴻は再び視線を畳に落とす。

「…きっと俺は、平静ではいられない」

そのままきゅっと唇を引き結び、羞恥を耐えるように俯いた鴻の耳朶が朱を刷いたように染め上がる。
ぐらり、と眩暈を覚えた。
そんな姿を見せられたら、いくら僕だって理性が決壊する。

「鴻、それって…」
ごくり、と自分の喉が淫蕩な音を立てて嚥下する。
「いつも貴方が耐えて下さっているのを知っていながら、俺はそれに甘えていたんです。この関係が変わってしまうんじゃないか、自分の知らない自分で貴方を困惑させてしまうんじゃないか、そして何より、自分がどうなってしまうのか想像がつかない事が恐くて、示す事が出来なかったのです」
逃げないでと言った言葉は、自分に言っていたようなものなんです。偉そうに申し上げて失礼しました。と、鴻は居住まいを正してまたもや頭を下げる。
「やめてってば!そんな事して欲しいわけじゃないって分かっているでしょう?こればかりは、お互いの気持ちが重なってからじゃなきゃ意味が無い。だから僕も急かすつもりなんてないんだ」
僕は鴻の傍に寄り宥めるようにその両肩に手を置くと、やんわりと上体を起き上がらせる。
そう促されるままおずおずと身体を起こした鴻は、不安げに僕を見つめる。
「…ううん、僕の方こそ嘘だ。急かすつもりがないのは本当だけど、焦れていないと言ったら嘘になる。だけどここまでの鴻の境遇や性格を思えば、僕の想いに応えてくれる事や恐い事を恐いと告げてくれる実直さは大きな歩み寄りだと理解している。だからこれについても僕は、僕が望むから応えてくれる鴻の優しさではなくて、鴻が望んでくれてから至りたい」

会話の中身だけを回視すると何とも居た堪れない内容だけど、僕たちにとっては真摯に議論するに値する事だった。

「僕は鴻が欲しい。けど、鴻も僕を欲しいと想えてから応えてほしい」

じわじわと自分の頬や耳朶が熱くなるのを感じる。
それを鏡合わせで見ているかのように、鴻の頬もみるみると赤くなった。
本当に色んな感情を知り、色んな表情を見せてくれるようになったと思う。
どんどん年相応になり、可愛さが増していく。
思わず見惚れかけていた僕の両頬を鴻の掌で包まれたかと思うと、唇を尖らせた鴻が憮然と零す。
「意地のお悪い…俺に貴方を誘惑せよだなんて、どんなに敷居の高い事柄なのかお分かりになっておいでなのですか?」
緊張からか、妙に改まった口調。そして、拗ねたように睨めつけてくるその表情に、僕は声を立てて笑った。
「あははっ、鴻から誘惑してくれたら天にも昇る気持ちだろうけど、そこまでの事じゃないよ。鴻がいいと思ってくれた時に受け入れてくれればいい。それだけの話だよ」
「俺は今までだって、戸惑いはしても拒否したつもりはありません」
「う〜ん…どう言えばいいんだろうね?」
いまいち意図している事が噛み合わない僕らは、鴻の同級の悩み癖で有名な彼の様に唸りを上げて悩み始めた。

「すみません、責めるつもりはないんです。だけど、伊作先輩は俺を少々過保護に扱い過ぎている。俺は生娘でもなければ、聖人君子の清廉潔白な御仁でもない。でも…まぁ、今までのこの数年を思えば疑いたくなるのも分かりますが」
鴻はそっと嘆息をし、過去の自分に臍を噛む様子がありありと伺えた。
「俺は俺の意思で貴方の想いに応え、またこの先も応え続けたいと思っています」
至近距離で見つめ合う。
僕の両頬を包む鴻の掌の体温が、僅かに上がった気がした。
「ですから、この先もお望みのままに…。けれど、決して勘違いなさいますな。これは甘受ではなく、俺なりの是である事を」
そう強い意志の声音と共に、そっと柔らかく僕の唇に押し当てられるものがあった。
それが鴻の唇だと理解すると、ぶわりと僕の全神経が逆波始め、ぐんと体温が上がった。
酷く繊細で優しい触れ方。
初めての、鴻からの口付けだった。


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