プールサイドの魚の沙夜視点
私は彼女の横でしか、存在が認められない。影と同じだと、自分で思った。どれだけあがいて頑張っても、彼女のそばでなくては輝けない。
だから、だと思う。私は彼女が大嫌いで、でもそれ以上に大好きで、そしてとても羨ましかった。
酸欠魚の羨望
夜のプールは、まるで墨汁みたいだった。これがいつも昼間透明に見える水なのか、本当に疑っちゃった。この中に入ったら真っ黒になっちゃうんじゃないか。そう本気で考えたりもした。
でも考えただけで、プールに入るのをやめるわけじゃないんだけど。夜のプールに入るためにわざわざ学校まで来たんだから、プールに入らなかったら学校に来た意味がない。きっと明日香なら本末転倒だ、とか難しい言葉を言うんだろうな。
余計な考えを捨てるように服を脱いで、準備体操を適当に済ませる。それから息を軽く整えてから、波紋も何もないプールに飛び込んだ。
冷たい水が体を包む。昼間に入る時とは全然違う感覚。なんだかくせになりそうだな。そう思いながら本気を出さずに泳ぎ始める。
明日香はプールに入らず、ただプールサイドに座って、足首から下を水につけているだけだった。
明日香の苗字は白野っていって、学校では知らない人がいないってぐらいの有名人だ。理由は定期テストでも、全国模試でも、常に成績トップだから。
どんなに難しい問題だって、簡単に解いてしまう。だから授業中は暇そうにしてるけど。もう難関大学への推薦が決まったのと変わらないらしく、またそれが明日香を有名にするきっかけになってる。
明日香は嫌がってるけど、私は羨ましかった。私には水泳の推薦しかないから。私も推薦は決まってるけど、難関大学なのかと言われればたぶん違う。
好きな水泳ができるのはうれしいけど、私はあんまり有名にならなかった。私が有名になれるのは水泳で賞をとった時と、明日香と一緒にいるときだけ。
それもそうだよね。めったにない天才といわれる明日香と、水泳しか取り柄のない私が一緒にいるんだもん。そりゃみんな私に興味持つよね。明日香と一緒にいる上に、水泳で毎回のように賞をとってるんだから。
私は自分が嫌い。明日香と一緒にいるのに、勉強が全然できないから。私が自慢できるのは水泳だけ。たった、それだけなんだ。
私が明日香と一緒にいるのは、なんでだろう。ずっと一緒にいるけど、考えたことはなかった。
みんな明日香を嫌味な人だよねっていうけど、私には明日香のどこが嫌味なのかわからなかった。明日香は優しいのに。
たまにいらっとするときもある、それは認めるよ。でも明日香は優しい子だもん。ちょっと人付き合いが苦手なだけで、明日香は嫌味な子じゃないのに。
私からしたら、明日香を悪くいう子たちのほうが嫌味な子に思える。なんでそういうふうにしか人を見られないんだろう。いいところを見つけられないなんて、悲しい人間だと思う。
そんなことを思う私も悲しい人間なのかもしれないけど、それはまあ考えないことにしよう。
昼間より冷たい水の中で、私は思った。明日香ぐらい頭がよければ、私も違った風に見えたのかな。明日香と釣り合ってるって、思われたのかな。
多分私が明日香と同じぐらい頭が良かったなら、今みたいに“私”によってくる人はいなかったかもしれないのに。私の性格とか考え方とか、そういう中身に興味があるんじゃなくて、ただ明日香に釣り合わないのに明日香と仲が良くて、水泳で賞をとってる“私”に寄ってくる人の相手は、もう疲れた。
どうして、私は“私”しか見てもらえないの? 結果を残せば残すほど、苦しくって仕方ない。本当は、私を見て欲しいのに。
酸欠になったみたいだ。最近そう思うようになった。本当は“私”を見て欲しいんじゃないの。私を見て欲しいの。
どれだけ私への評価を求めたって、結局そんなもの誰もしてくれない。明日香以外の人は。明日香以外の人から見た私は、明日香の付属品で、水泳で賞をとっている人、なんだから。
だから、いつも思う。明日香が羨ましいって。一人で輝けて、ちゃんと一人として、ちゃんと明日香として認めてもらってるから。
でも明日香はそれじゃ嫌だって、前にぼんやり言ってた。どうしてそんなことを言うんだろう。私には分からなかった。
私を羨ましいという明日香が、分からない。私とは全然違って一人として認められるだけの力があるのに、これ以上何が欲しいの?
冷たい水が、どんどん体の中心へ冷たさをしみこませていく。このままもう少し入っていたら、風邪を引いて明日の大会に出れなくてもすむかな。そんな馬鹿みたいなことを考えて、惨めになって笑えた。
「沙夜、いい加減に帰ろうよ。明日大会なんじゃないの」
「大会……、ねえ……」
「何、出たくないの? 泳ぐの、好きでしょ」
「……別に」
明日香が座ったまま、私に言った。私は返事をしてからまた水中へもぐった。明日香は、私の気持ちを知らないから大会があるからって言えるんだ。
大会は、嫌い。記録しか見られないから。記録だけを求められる水泳は、大嫌い。記録を残さなくちゃ、水泳をやってる意味がないって先生はよく言うけど、記録がそんなに大切なものなの?
私がやりたいのは、楽しい水泳なのに。泳ぐことが好きで、好きだからこそ水泳部に入ったのに。記録を求められる度に、どんどん水泳が嫌いになっていく。
才能があるんだからもっといい記録を出さなくちゃ駄目でしょ。
その言葉が、何度私を傷付けたんだろう。才能って言葉で私を片付ける人が、私は嫌い。才能なんていいものでもなんでもない。才能があるから、私は私としてみてもらえない。みんなの中の私は、どんどん才能が作る“私”になっていくんだから。
才能って、何? 才能があったら、楽しく泳いじゃ駄目なの? 才能があったら、記録のために泳がなきゃいけないの? もう、わけが分からないよ。
楽しさを求めたら怒られて、記録を出さなかったら人が離れていく。なんなんだろう、この現象は。
私は水泳の記録がないと、みんなを引き止めておけないの? 明日香の付属品としてじゃなきゃ、私は興味を引けないの?
私は、こんなにも空っぽな人間じゃないはずなのに。空っぽじゃないはずなのに、空っぽなような気がして、何が私なのか分からなくなる。
苦しくて、辛くて、悲しくて。こういうとき、明日香のことが嫌いになりそうになる。明日香は、私をちゃんと評価してくれるけど、やっぱり明日香も私を羨ましがるから。
私からしたら、明日香が羨ましいのに。明日香の持ってるもの、欲しいって思うのに。明日香は欲張りだ。これ以上、私との差を広げないでよ。
こんなどろどろとしたことを考えていたからなのか、私は明日香の足首を掴んでプールに引きずり込んでいた。
明日香なんていなくなっちゃえばいいのに。明日香がいなかったら、私は今よりは私として見てもらえたかもしれないのに。明日香の馬鹿。明日香なんて……。
もがく明日香を見ていたら、なんとなく気持ちが良かった。私がいつももがいていることを知らないのに、私を羨ましいなんていうから。明日香がもがくところなんて、今まで見たことないし、明日香にはもがく必要がないんだから。
ちょっとした優越感ってやつに浸っているたら、ふと我に返って手を離した。私は、何をしていたんだろう。
「危なかったね、明日香」
「何が……。いきなり何、すんの……!」
「先生の巡回。服は明日香が畳んでくれてたから、忘れ物だと思われたみたい。そのまま置いてあるから問題ないよ」
「だからって、引っ張らなくったっていいでしょ……!」
「ごめんごめん、気が動転しちゃった」
ごめん、嘘。先生の巡回なんてないよ。先生はもう帰ってるんだから。ごめんね、明日香。私今日ちょっとおかしいみたいなんだ。
本当は明日香が好きなのに、大好きなのに。なんであんなことしちゃったんだろう。自分が気持ち悪い。
私をちゃんと評価してくれるのは明日香だけなのに、明日香がいなくなったら本当に私、本当に“私”としてしか評価されなくなっちゃう。
そうなったら本当に辛いよ。明日香がいなくなったら、私どうしていいのか分からないよ。
明日香の影でいることが不満に思ってたけど、よく考えてみれば私は、明日香の影としてしか生きる方法を知らないじゃんか。
水面に浮かびながら、これまでを振り返った。明日香が休みの日は、どうしていいのか分からなかったっけ。明日香が行動をおこさなゃ、私はいつまでもぼんやりしてるだけの子だったっけ。
明日香と行動するようになって、私は明日香とじゃなきゃ行動できなくなってた。明日香がやることは、私もやる。明日香に頼まれたら、何だってやる。
飼い主と飼い犬みたいな、なんだっけ、明日香が言うなら主従関係ってやつに、私は知らず知らずのうちになってたんだ。
だから、なのかな。明日香がほかの人より輝いて見えて、それがまぶしくて、羨ましいのは。
明日香、明日香。私を置いていかないで。こんなこと言ったら、明日香は私を重い子だって思うかな。明日香、大好きなの、だから私より遠くに行かないで。
私には、明日香に置いていかれないようにがんばれるもの、水泳しかないから。
「ねえ、明日香」
「何?」
「私、水泳嫌いになりそう」
ぽろっと口からこぼれた本音。水泳を捨ててしまえば、私は明日香においていかれるって分かってるのに、水泳を捨てたいと心のどこかで思ってる。
変な話なのは分かってる。でも人間、そんなとこもあるんじゃないかな。明日香も人間には矛盾があるんだよって言ってたし。
明日香が私の言葉に驚いて、私のほうを向こうとしたけど、明日香がいるのは私と同じでプールの中。水が目に入ったみたいで、あわててまた上を向いた。
今、顔を見られなくて良かったと思った。私の顔、絶対にひどいから。
私は何も言わない明日香へ、言葉を吐き出した。
「なんで水泳してるのか、わかんなくなっちゃった」
「なんでって、好きだからでしょ。何言ってんの」
「泳ぐのは好きだよ。でも、記録ばっかり求められて、記録が良くて優勝したら周りにもてはやされて……。私の水泳って、そんなことのためにやってたんだっけ」
「沙夜……」
「私、明日香になりたかったなあ……」
そこまで言って、プールサイドまで泳いでいって、プールサイドに上がった。あれ以上明日香の近くにいたら、絶対明日香を傷付けちゃう。
綺麗にたたまれた服の横に置いてあるタオルを拾って、顔を埋めてみる。ぼろぼろこぼれる涙は、しばらくとまりそうにない。良かった、泣く前にプールからあがれて。
ねえ明日香。私ね、いつも思うの。明日香と出会わなかったら、今頃こんなに悩むことはなかったんだろうなって。明日香と出会ってしまったから、私はこんなにも悩んでるんだろうな。
でもね、それを明日香のせいだとは思ってないの。私に魅力がなかっただけの話、だから。明日香は魅力があるから。私がいなくても明日香は輝けるし、評価してもらえるから。
でも私は明日香なしじゃ、輝けないし評価ももらえない。明日香がいなきゃ私は生きていけないの。
こんな私、嫌だよね。こんな人間と、一緒にいたくないよね。いつかはそういわれるかもしれないって、心のどこかでは思ってる。
でも今だけは。今だけは明日香と一緒にいさせて。私の存在価値を作って。いつかは自分で存在価値を作れるようになるから、せめてそのときまでは置いていかないで。
水槽の中で口をパクパクさせる魚のように、私はいつまでももがき続ける。彼女のような自由な魚になるのには、まだ自信と酸素がたりないみたいだから。
なんて、体から流れ落ちていく水を感じながら思った。
prev next