「おはよー」
朝からクラスメイトの声で溢れかえる教室。朝練終わりの火照った身体と、朝から既に25度を超えてしまった暑さを少しでも和らげようと買ってきたスポーツドリンクに口を付ける。
「えー!ちょっとその髪どうしたのー!」
騒がしいクラスの中でも、今日イチで大きな声が聞こえてきた。……出た。また髪の毛の話だ。
女というのは、どうしてこうも髪の毛に敏感なのか。前髪数ミリ切っただけでも短すぎるだの切りすぎただの。この騒ぎの中心の事だって、肩くらいまであった髪が肩よりも少し上くらいまでとか、どうせそんな事だろう。
「え、あの子ってあんな髪短かったっけ?」
前の席に座っている岳人が、後ろを見て首を傾げた。
「あの子?」
「ほら、ここの席の」
そう言って岳人が指を差したのは、自分が今まさに、座っている席だった。……え?真宮が?
別に真宮が、他と比べて髪を長かったという訳では無かった。ただ、授業中に黒板を見ている時も、プリントを回してくる時も、前の席という事でどうしたって視界に入ってくる彼女の髪。綺麗な髪だなと、少しだけ思った事もあった。
もう少ししたら、いつものように目の前の席にカバンを置きに彼女はやってくるだろう。岳人が「悪い、席借りてる」と言う。「うん、大丈夫だよ」と言って目を細めて笑うのは、相手が岳人でもジローでも変わらない。それはわかってる。
でも、岳人があんまり目を丸くして見つめるものだから。未だ始まらないいつもの会話の前に、俺も岳人の目線に釣られるようにして振り返った。
「……」
そして俺の視界に入ってきた彼女は、肩どころか首までがほとんど見えそうな程に髪が短くなっていた。「似合う!」「可愛い!」と騒ぐ友達に対して、頬を少しだけ赤く染めながらも嬉しそうに笑っている。
不意に、彼女がこっちの方を向いた。バチッと音が聞こえそうなくらいに視線がぶつかる。その瞬間、俺は慌てて前を向いた。ガタン!……思わず、椅子が跳ねる程に。
「な、ここの子だろ?」
振り返った俺に、けろっとした顔で首を傾げてくる岳人。「ああ」とだけ返事をする、俺の心臓が何処か可笑しい。
なんだこれ。どうなってんだ。バックンバックンと脈打つ心臓が、何かの始まりを告げている気がする。
何考えてんだ。たかが髪を切っただけだろ?数センチだと思ってたのが、十数センチだっただけだ。いや、二十センチはいってたか?…って、そんなのどうでもいいじゃねえか。「カバン置いてくるね」。そんな事を考えている内に、これまたいつもの声が聞こえてきて、そのくせそれだけで背筋が伸びる思いだ。
タンタン。こっちの方へと近づいてくる足音が聞こえてくる。
「あ、悪い。今日も借りてる」
目線を上げた岳人が、こちらもいつものトーンで声を掛けた。
「ううん、全然大丈夫」
そう言って机の横にカバンを掛ける真宮の顔が、何故だか見れない。かと言ってあまりにも態度に出すのもどうかと思い、再びペットボトルへと手を伸ばす。俺、今飲みもの飲んでっから。だからそっち、向かねえだけだから。
…そんな激ダサな言い訳、誰も聞いてねえのに。
タンタン。今度は少しずつ離れていく足音と共に、少しずつ収まっていく心臓の音。ゴクゴクと喉を通るドリンクの味がイマイチわからない。「今日は一段と飲むのはえーな」、岳人に驚いたように言われて初めて、全て飲み干してしまった事を知って。
チャイムが鳴って岳人がいなくなり、代わりに目の前に座る真宮の後ろ姿を見て、俺は窓の外を眺めた。……ああこれ、やっぱ、何か始まったかもしんねーわ。