こんなのって、絶対おかしい。目の前で泳いでいる金魚を見ながら、私は一人、ため息をついた。

一時間目の理科室での授業が終わってから友達と教室へ戻ろうとすると、理科の担当でもある担任に声を掛けられた。「前回の小テスト休んだ分、金魚の水槽掃除してくれたら受けなくてもいい事にする」。そのような事を言われて、テストを受けなくてもいいのなら!と快諾した私。
しかしその直後、なんと先生は仁王くんに声を掛けた。どうやら私が具合が悪くて休んだ日に、彼も休んでいたらしい。「じゃあ放課後、二人でよろしく頼むぞ」。そう言い残して去っていった担任を、こんなにも恨む日が来ようとは。


「はぁ」


開く気配すらない後ろの扉を見て、もう一度深くため息をつく。ため息をつくと幸せが逃げるとか、今の私にとってそんなのはどうでもいい。少しでもこの重たい気持ちを外に出せるなら、多少の幸せの犠牲は仕方がないのだ。


放課後になり、理科室へと向かおうとした私は念の為少し離れた席にいる仁王くんの事を見てみた。ダルそうにカバンを持って立ち上がった仁王くんは、そのまま教室を出て行く。
まさか、もう向かうなんて。そう思いながら私もカバンを持って慌てて後を追うと、何故だか理科室とは違う方向に曲がって行く仁王くん。曲がり角まで追いかけて、けれど私は、声をかける事も出来ずに後ろ姿を見送った。

ただのサボりなのか、それとも私と一緒に居るのが嫌なのか。

前にも一度、仁王くんと一緒に作業を任された事があった。その時は授業で使うプリントを纏めてホチキスで止めるという作業だった。お互い話した事は無くて、ただ私が紙を纏める時に出る擦れる音と、仁王くんがホチキスを止めるパチンという音だけが聞こえる教室内。何か話したいと思ってもいい様なものだけれど、私から仁王くんに話し掛けるなんて事は絶対に出来なかった。

そして滞り無く作業が終わり、纏めたプリントを職員室まで持っていく途中。前を歩いていた仁王くんが突然足を止めて、そのまま窓を開けた。な、なんだ。流石に無視して横を通過するのは無理だったので、私も窓の外を見る。そこには一匹の三毛猫がいた。


「猫だ…」


思わず口から零れた言葉に、私は自分でも驚いて慌てて口を閉じた。でもその言葉は仁王くんの耳にも届いてしまったらしく、未だかつて無い距離感で仁王くんと目が合った。


「あ、に、仁王くんの猫なの?」


……今思えば、家が近くもないであろう仁王くんの猫な訳は無い。しかしその時は仁王くんといつもとは違う距離感に、何か言わなくてはと内心焦っていたのだと思う。私の言葉にキョトンと目を丸くした仁王くんは「いや…」と呟くように返事をくれた。

「アイツ、この辺で最近見るんじゃ。見た時ないか?」
「……ない」
「そうか」

そう言って再び猫に目を移した仁王くんの横顔は、今まで見た時の無いくらい、優しい顔をしていた。


結局一人で水槽の掃除を始めた私は、初めに金魚達を水槽からボールの中へと避難させた。普段は常に水槽のモーター音が聞こえる理科室の中に、今日は私が水槽やその部品を洗う音が響いている。室内は少し暑いけれど、流し続ける水が冷たくてそこまで気にならなかった。

しかし水槽を洗う私の胸の中は綺麗になっていく水槽とは違い、モヤモヤと薄汚れていく様だ。


あの日は、それから少しだけ仁王くんとお話をした。本当に、少しだけ。それでも最後に、猫が好きなのかと聞かれて頷いた私を見た仁王くんは「それなら今度、アイツがいつも昼寝しとる場所を教えちゃるぜよ」と言ってくれたのだ。仁王くんがそんな事を言ってくれるなんて思わなくて内心とても驚いたけれど、それ以上に、素直に嬉しかった。驚いたのと、嬉しいのと、不思議なのと。色々な感情が混じった私の心の中は、少なからず明るい色をしていたと思う。

……だけど、仁王くんは教えてくれなかった。まるであの会話は私の夢だったのか。そう思う程にそれ以降も仁王くんとは話すどころか、目が合う事すら無かった。私から声をかけるのはやはり出来ないから、そのまま、ただ時間だけが過ぎていった。


水槽や部品を洗い終わり、最後に水槽の底に置かれていた石を洗う。私達に頼むくらいだから、比較的長い時間掃除が出来ていなかったのだろう。石の表面は、かなり黒ずんでいた。

私、何かしたのかな。教えてくれると言ったのは、私の聞き間違いだったのかな。そう考えて何も言われない事に悩んだ事もあったけれど、そもそも私と仁王くんには接点が無かった事を思い出して私は悩むのをやめた。
見た目があんなに派手な仁王くんだから、色々な噂がある。それで仁王くんをどうこうと思った時は無かったけど、彼にとってあの言葉はなんて事のない言葉だったのだと思う事にした。誰にでも言う言葉。だから仁王くんはきっと言った事すら忘れているのだと。


タンタンタン!突然廊下から足音がしてきて、私は顔を上げた。そしてその音が止まったかと思うと、勢い良くドアを開けられた。


「……」


ドアを開けたのは、仁王くんだった。しかし先程見た後ろ姿とは違い、辛子色のテニス部のジャージを身に付けていた。
しばらくドアの傍で止まっていた仁王くんと、彼のまさかの登場に驚き固まっていた私。でもその中で、仁王くんが一歩を踏み出した。

すぐに私の目の前にやってきた仁王くんは、私の手元にある石、そして洗われてタオルの上に並べられた水槽とその部品を見て、最後に私の顔を見る。


「……すまん、頼まれたのすっかり忘れとった」


気まずそうに、申し訳無さそうにそう言った仁王くんは小さく頭を下げた。


「あ……そっか」


未だ驚きで頭が真っ白な私にはそれしか言えなかった。「これ、組み立てたらええ?」。置かれた水槽に手を掛けて、私に聞いてくる仁王くん。

「あ、いや、最初にこの石を入れてからだからまだかな」
「……そうか」
「うん」

頷いた私は漸く石洗いの続きを始める。
ああ、びっくりした。……でも、なんだ。忘れてたんだ。別に私の事を避けてた訳じゃなかったんだ。
ジャラジャラ。石の擦れる音がして、黒っぽくなっていた石の表面が少しずつ綺麗になってきて。

ある程度表面が綺麗になった所で私は洗うのをやめた。


「それじゃあ、これを中に入れるんだけど…」
「ん、わかった」


そう言って仁王くんは石の入ったボールを持ち上げた。重くて、少しずついれようかと考えていた私はそれでまたびっくり。意外。仁王くんって、結構力持ちなんだ。


「あとは?」


石を入れ終えた仁王くんが聞いてくる。それから水を入れて、金魚を入れて、ポンプ等を設置して。最後に蓋をしめてから改めて見てみると、昨日までの水槽とは見違える程に綺麗な水槽になっていた。
自分が綺麗にした水槽というだけでなんだか愛着の様なものが湧いているらしい。中を泳ぐ金魚達の姿は、心做しかいつもより可愛く見えた。


「悪かったな、ほとんど全部やらせて」
「や、ううん!全然、大丈夫」


金魚を見ていたら仁王くんに声を掛けられ、慌てて姿勢を戻す。『仁王くん、ちゃんと来てくれたし』という言葉が出てきそうになったけど、それはぐっと飲み込んだ。

「っでかむしろよく思い出したね?」
「あー、着替え終わって練習前にトイレ行こうと思ったら猫見つけて、それで」
「……猫?」


……猫、見つけて?


「前に真宮と雑用した時に見た、あの三毛猫」


「覚えとる?」と続けられたけど。いやいやそれ、私の台詞なんだけど!


「うん、それは覚えとるけど」


動揺して、思わず聞かれたまんまで返してしまう。だって、仁王くん覚えて……。ええ?


「……」
「……」


じっと私を見ていた仁王くんが、不意に視線を逸らした。


「あの時、アイツの昼寝場所教えるって言ったのなんじゃけど」
「うん」
「……明日は練習が休みじゃき、お前さんが良ければ明日案内したい」



「なんて言って声を掛ければいいのかわからなかったんじゃ」「お前さんの一人になる時間が無いのが悪い」。
何故最初に話しかけてくれなかったのかを聞いてみたら、少しだけ拗ねた表情の彼が素直に答えてくれる。
「どう考えても私の方が無理でしょ」「雅治が話しかけてくれるの、ずっと待ってたのに」。
同じく口を尖らせ、私はそう答える。

だけどこれは、金魚の水槽掃除事件よりも随分と涼しい季節になってから、なのです。

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