(『健全なぼくら』の番外編です)

ピンポーン。約束の五分前にチャイムが鳴った。「はーい!」。元気に声を上げた私は、うきわの空気穴を摘んで玄関に駆けつける。


「蔵、おはよう!」
「おはようさん」


眩しい太陽を背にした蔵が、朝から爽やかな笑顔を浮かべる。
テニス部の夏が終わり、部活の無い自由気ままな夏休みが始まった。去年までは毎日練習、練習、時々合宿と、夏休みなのにほとんど毎日学校に行っていた。でも部活が終わった今、私はまさに自由なのだ!…え?受験生じゃないか?まあまあ、そんなのは明日から始めればいいのです。今の私にとって大切なのは、蔵とプールへ初めて行く今日という日なのである!


「あれ、うきわ?」
「そうなの!水着買いに行った時に見つけてね、可愛かったから買っちゃったんだ!」


空気が漏れないようにと穴を摘んだままで、蔵の目の前にうきわを持ってくる。ハイビスカス、パイナップル、ヤシの木。他にも色んな夏らしい柄の付いたこのうきわに、私は完全に一目惚れしてしまった。もはや水着よりも先に買う事を決めたくらい。これぞ衝動買いである。


「でもごめんね、あと少しでちゃんと膨らむから少しだけ待ってて!」


そう言って私は、玄関に用意された他の荷物を指差した。「おお」、蔵が小さく頷いた。

蔵はいつも、約束の五分前に私の家に迎えに来る。それをわかっていたのに、当日蔵が来る前に膨らませればいいか!と脳天気な事を考えていた昨日の自分を恨んだのはほんの数分前。息を吹き入れて思った。私の肺活量がどれくらいのものなのかはわからないけど、これは私にとってうきわを膨らませるというのは、中々にハードなミッションだったらしい。
ふーっとうきわへと息を吹き入れる。うきわの継ぎ目にあるシワが伸びていくのを見ながら表面を触ってみるけれど、もう少し空気は入りそうだ。


「…ちなみにこれから電車乗るけど、もう膨らましとるん?」


大きく息を吸い、空気穴に口を付けた瞬間。不思議そうな蔵の声が私の耳に入ってきた。…これから電車に乗る…。


「そうだった!」


空気穴から口を外し、蔵の方を見て叫ぶ。そうだった!そうだった!今日はこれから、電車に乗って向かうんだった!


「……」


口を離した瞬間に反射的に空気穴を潰して、外に空気が漏れるのを防いでいる私の手。…そりゃあそうだ。さっきまであんなに頑張って、くらくらと酸欠っぽくなりながらも頑張って空気を入れていたのだから。でも持っていくには手を離して空気を抜かなければならない。


「……私のアホ」


引っ越してきてから随分と経っても関西弁には染まらないくせに、こういう時にバカではなくアホを使うようになっていたらしい。自分に対しての想いを吐き出し、私は諦めて指の力を緩める。


「あっええよ、わざわざ萎ませんでも!」
「えっ」


指を緩めてシュゥゥと空気の抜ける音がしてきた空気穴を、蔵が私の指ごと潰した。ピタリと止まった空気の音と共に、私は蔵を見上げる。


「せっかくなつこが頑張ってそこまで膨らましたのに勿体ないやん、そのまま持ってこうや」


…そう、蔵は言うけれど。でもこんなうきわ持って電車に乗るって、やばくない?浮かれ過ぎじゃない?…いや、私は浮かれてるんだけど。だからうきわを膨らましていたんだけど。

「や、でもさすがに恥ずかしくない?」
「え?」
「浮かれ過ぎてるっていうか」
「……」
「ああいや、私は見ての通り浮かれてるから仕方ないんだけど、一緒にいる蔵が恥ずかしいでしょ?」

未だに空気を逃さまいと指の力を止めない蔵は、私の言葉を聞いて口元を緩めた。


「実は俺も、浮かれとる」


そう言って、私の額へとキスを落とす。


「大好きな彼女とプール行くのに、浮かれへん男はおらんやろ?」



それからすぐにうきわを膨らまし終えた私達。うきわを肩に掛けて持つのは、私では無く蔵だ。「アカン」、そう呟いて手を握ってきた蔵を見上げる。「ただでさえ楽しみやったのに、うきわ持ったら楽しみでしゃーなくなってきたわ」。少しだけ恥ずかしそうに私を見る蔵の手を、私はギュッと握り返した。

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