「ほ、本当にごめんなさい!」


恐らく私の方を向いて頭を下げているであろうこの声の主を、今の私は捉える事が出来ない。今私の視界に入るのは、水に濡れた地面と、私の髪からぽたぽたと落ちていく水滴だけだった。

この時期、学校の玄関の近くのプランターに植えられているのは朝顔だ。向かいの花壇に植えられているベゴニアやパンジーなんかも可愛いけれど、比較的長い時期咲いている花壇の花達とは違い、朝顔は夏休みまでの時期にしか見られない。昼になれば萎んでしまうその花へ、私は登校する度に知らず知らずの内に目を向けていた。
今日も綺麗に咲いているなあ。どうして朝だけなんだろう。いつものようにぼんやりと朝顔へ目を向けながら横切ろうとした、その時だった。

友達と話しながら花壇に水を掛けていた女子生徒が、朝顔にも水を掛けようとこちらへ振り返った。しかしその時、まさか人が歩いているだなんて思わなかったのだろう。水を出しっぱなしのままで振り返ったが為に、ホースの先に取り付けられたシャワーから出ている水が私へと降り注いだ。……そして、冒頭へと戻るのである。


「ああいや、大丈夫です」


濡れた髪を退けながら、謝ってくる女子生徒の顔を見る。決して大丈夫ではない。体育のない今日は、着替えどころかタオルも無いのだ。……でも、そんなに申し訳無さそうな顔をされたら、こう言うしかないというのが本音だった。悪気があった訳でもないというのは、先程までの楽しそうな話し声からわかっていたから。


「…おい」
「ん?」


背後から突然低い声が聞こえてきて、私は振り返った。「大丈…」、そこまで言いかけていきなり驚いた顔をしたのは、同じクラスで後ろの席の海堂くんだった。


「お、お前っ」


そう言って慌てた様子で顔を逸らす海堂くん。なんだ?と私は首を傾げる。そして顔に張り付いた髪の毛を手で払う私をよそに、海堂くんはカバンをあけて中からタオルを取り出した。

「使え」
「えっ、でも」
「いいから、とりあえず前だけでも隠せ!」

ぼふっと真っ白なタオルを押し付けた海堂くんは、やはり私から顔を逸らしてそう告げて。前だけでもとは…。そう思って下を向くと、なんとビックリ!水で濡れた制服が、素肌にピッタリと張り付いていたのだ!
「わあ!」と声を上げて、私は慌ててタオルを広げて肩から羽織る。でもフェイスタオルよりも少し大きめなスポーツタオルと言えど、前を完全に隠すまでには至らない。それではダメだと私は一度羽織ったタオルを戻し、身体の前に持ってきて、とりあえず前だけは隠すことが出来た。


「ご、ごめんね海堂くん……あっ、その、タオル…ちゃんと洗って返すから!」


恥ずかしい。恥ずかしい。今日私、何色の下着だっけ。そう考えてみても、恥ずかしさでいっぱいの頭の中に、昨日の夜付けた下着の色は出てきてくれなかった。


「それより真宮は今日、着替えあんのか」


ちゃんと隠しているはずだけど、やっぱり目を逸らしたままの海堂くんがそう聞いてくる。そしてその言葉に、先程までどうしようか考えていた案件が脳内を過ぎて。


「……無い、ですね」


自分で声に出してどうしようもない事実を改めて確認し、あははと苦笑いが零れた。友達から体育着を借りようにも、その友達の所まではどうやって行こうか。タオルはあるけれど、張り付いた制服を感じる背中を思うとそれも悩み所で。そんな事を考えている最中も、髪から顎を雫が伝っていくのがわかる。
私の返答を聞いた海堂くんは、何故だか再びカバンの中を漁り始めた。すると次に出てきたのは、テニス部の正レギュラージャージだった。


「悪いが前開きの服はこれしかねえ。とりあえずこれ羽織って、他クラスの奴から何か借りてこい」
「………ええっ!」


そして差し出されたジャージを見て、私は大声を上げる。


「これはさすがに悪いよ!それにジャージ濡れちゃうし!」
「どうせ使うのは部活の時だし、この暑さなら干しとけば乾くだろ」
「で、でも」
「………嫌なら、別にいい」


そう言って私に向けて伸ばしていた腕を、海堂くんは引っ込めようとする。


「あ、い、嫌じゃない!」


それを見て、私は思わずその手を掴んでしまった。「…です」。驚いた顔でようやくこちらを見た海堂くんと目が合い、でもなんだか恥ずかしくなってそう付け加える。


「……ちゃんと洗ってある」


全然、ちょっとも疑っていないのに、気遣いの言葉を添えて海堂くんはジャージを渡してくれた。そんなの気にしてないよと言って受け取り、私は肩から羽織る。ふわりと私の鼻を擽ったこの香りは、海堂くんの家のものだろうか。そう思ったら、どきんと胸が小さく跳ねた。

何度も私に頭を下げていた女子生徒は、最後に海堂くんにお礼を言っていた。それに続いて私もお礼を言うと「ああ」と頷いて、小さく笑ってくれた。


……海堂くんって、こんな風に笑うんだ。

「一緒に行ったら変な奴に絡まれるかもしれねえ」。そう言って一足先に教室へ向かった海堂くんの後ろ姿を見ながら、そんな事を考える。綺麗な顔をしているけど、いつも少し怖い表情が多い海堂くん。言葉数も少ないし、後ろの席と言えどあまり話した事は無いけど、こんな風に助けてくれるなんて。
ふと借りたタオルを見ると、タオルには可愛い猫のワッペンが付いていた。海堂くんってお姉さんか妹がいるのかな。弟がいるっていうのは聞いた事があったけれど……これ、もしかして海堂くんのだったりして?
自分の中に今まで無かった疑問が湧き上がり、それと共に海堂くんへの感情が、ゆっくりと動き始めたのがわかった。

不器用で優しくて、猫が大好きな彼と私の恋。これはその、始まりのお話。

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