(高校生くらいの設定です)
今日は、私の誕生日だ。
『いいなぁ』
卒業式が終わって、思う存分友人達と一緒に写真を撮ったり卒業アルバムに寄せ書きしあったり。もちろんリョーマにも寄せ書きを書いて貰い、最後に彼と歩いている時だった。偶然目に入ったのは、同級生の中でも学年の中心生徒として目立つ存在だった桃城武くん。一個下に彼女がいるのはもはや周知の事実で、度々仲睦まじい姿を見せてくれていたので今更一緒にいるのを見た所で驚きもしない。
しかし私が思わず言葉を零してしまったその理由は、桃城くんの手元にあった。
『え?』
隣から最低限で且つ疑問を呈する声が上がり、反射的に二人からは目線を外して振り返る。
『桃先輩?』
『……え、あっいや、違うくて!』
振り返った先に見た彼の唖然とした表情に急いで否定をする。何を言われた訳でも無いのに、違うと否定するのも何か違う気がしたけれど、出てしまったのだからそれは仕方がない。
『ボタンをね、桃城くんが渡してたのがね』
先程私が見たのは、丁度桃城くんが彼女へとボタンを渡す瞬間だった。まだ何処にも行っていないのだろう。全てのボタンが綺麗に残っている桃城くんの学ランの中で、第二ボタンだけが無かった。
第二ボタンだからなんだというのもわかる。一番心臓に近いからだとか、一番指で触る機会が多いからだとか、第二ボタンが特別だとされる理由は幾つもある。でもそんな理由は正直どうでもよくて、昔から言われ続けているお陰で、好きな人の第二ボタンというのはどうしようもなく女子の心を揺さぶるのだ。
『……』
私の返答を聞いても彼の表情が変わる事はなく、むしろ少しむすっとしてそっぽを向いてしまった。
『え、なんで?』
『……桃先輩のボタンが欲しいの?』
ちらり。私へと一瞬だけ向けられた彼の視線はおよそ冷たいものなのに、彼の中にある感情を思うと全くもって怖くないのだから不思議だというか、少し申し訳ないというか。
『違うよ』
すぐに逸らされてしまった目線も一緒に呼び戻す様に、私は彼の腕を引く。
『好きな人の第二ボタン貰えて、羨ましいなぁって事だよ』
こちらを向いた彼の目がいつもよりも少し大きく開かれる。それから自分のボタンへ目線を落す、その素直な行動が堪らなく可愛くて。
『あ、違うよ!でもリョーマのボタンが欲しいって訳じゃなくて』
『……え?』
私の言葉に今度はもっと大きく見開いた彼の目はもはや今にも落ちそうな程だ。
『だってリョーマはまだ1年その学ラン着るんだから、第二ボタンが無くなったら困るでしょ?』
『そんなの別に、また付ければいいじゃん』
そう言ってボタンへと何の迷いも無く手を掛ける彼を慌てて止める。
『ダメダメ、ダメだよ!』
『なんで?』
『だってほら、せっかくなら3年間リョーマが毎日付けた第二ボタンがいいから』
2年間じゃあ、ちょっと足りない。やっぱりちゃんとリョーマと最後の卒業式まで一緒に居てくれた第二ボタンじゃなきゃ。
私の思いを説明すると、初めは納得のいかない顔をしていた彼は口元を緩めた。
『……なんて言うか、ホント欲張り』
ご最もな感想を貰ってしまったけど、これが本音なのだから仕方がない。まぁ、私の為に彼の第二ボタンをわざわざ取らなくてもいいという気持ちもそりゃああるけれど。
『でも先輩が言うならそれでいいよ。俺が無理してあげるのもなんか違うし』
ボタンに掛けていた手を漸く外し、そのまま私の髪を耳に掛けてくる。
『その代わり、もう他の人のボタンなんか見ないでよね』
いつからこんなに大人になったんだろう。優しく私の髪を扱う彼の手に、思わず心臓が少し早くなる。けれどよく見ると、そんな彼は拗ねた様に私を見ていて。全くもう、他の人なんて見る訳無いのに。にやけそうになるほっぺに、私はぎゅっと力を入れた。
***
冬が終わりを告げる。
春がゆっくりとやってくる。
「遅いなぁ」
卒業式後、そのまま会いたいと言ってくれたリョーマとの待ち合わせは学校近くの駅にあるカフェの前になった。終わったら連絡をくれるとの事だったのに未だに連絡は無い。
窓の外を吹く風を表現するならば、ふわりと楽しい気持ちを運んできてくれるような。でもなんだか寂しくもあるような。
そんな事を考えながら外を眺めていた私の視界を横切っていったのは、前が全て開いた学ラン姿の彼だった。
「ごめん、遅くなって」
彼を見てから携帯を確認しても連絡は無く、心做しか息を切らしているようにも思える。
「ううん。それは大丈夫だけど、連絡ないからちょっと心配してた」
「……え」
ズボンのポケットへ手を入れて携帯を取り出した彼は自分の携帯の画面を見て、うわ…と呟いた。
「今から行くって送ったと思ってた」
気まずそうに顔を逸らす彼だけど、わざわざ走ってきてくれたのだから全くもってそれは問題ない。今の私には、そんな事よりも。
「……」
ボタンが、ボタンがないのだ。約束していたはずだったのに。去年の今日、1年後の3年間付け続けた第二ボタンを貰うと。
というかもはや第二ボタンどころではない。上から下まで、引いては手首の小さなボタンまでが無い。何にも、たったの一つも残っていなかったのだ。
「……怒ってる?」
そう言って彼は心配する様な目付きで私を覗き込んでくる。怒ってない。怒ってない、けど。
「……」
何処にも無い。私が本当は貰うはずだった第二ボタンが何処にも無い。随分遅くなった事と、ひとつ残らずボタンが残されていない彼の学ランを見ればわかる。好きな人のボタンが、憧れの人のボタンが欲しい女の子達が持っていったのだろう。去年もそうだったからわかる。テニス部の桃城くんや海堂くん、バスケ部の進藤くん、サッカー部の田口くんなんかは本当に大変そうだったから。
考えなくてもわかっていたのに。リョーマだってそうなるとわかっていたのに。どうして貰わなかったんだろう。金色のボタンが無くなり、黒一色の学ランを見て後悔が募る。
「だから、遅くなってごめんって」
首の後ろに手をやりながら困惑の色を浮かべて向かいの席に座った彼は、反対の手をポケットに突っ込む。
それじゃないもん。遅くなったのは怒ってないもん。むしろ送るのを確認する暇もないくらい急いで来てくれたんだと思ったらもう、それだけでいいって思えるんだから。リョーマは私の事、何にもわかってない。
「……手、出して」
何にも言えずに手元のカップを見ている私。しかしポケットから何かを取り出したらしい彼にそう言われて手を出した。違う、手のひらを上にして。そう言われてその通り手のひらを上に向ける。
「はい、誕生日おめでとう」
コロン。私の手のひらの上に被せるように乗った彼の手から落ちてきたのは、金色のボタンだった。
「なんて顔してんの」
……これでもまだ、怒ってる?そう付け加えてまだ少し心配そうに私を見る彼の目に、どんな顔の私が映っているんだろう。
「何これ、」
「何って…去年言ってた、3年間俺が付けた第二ボタンだけど」
「……だって全部、無かったじゃん」
袖のボタンだって無くなっているくらいだ。第二ボタンなんてそれこそ一番最初に無くなってしまったはず、なのに。
「あー、それは卒業式終わってすぐに俺が取ってポケットに寄せておいたから」
ふう、と息をついた彼が私の手元のカップを持っていく。
「去年から予約してたの、先輩でしょ?」
私が怒っていない事が伝わったらしい。優しく笑いを漏らした彼は、私のカフェラテを一口飲んで。
「……絶対無いと思った」
「無い訳ないじゃん。先輩、何年経っても俺の事、何にもわかってない」
そう言って彼はカップに入っている残りのカフェラテを一気に飲み干した。そして、ほら行くよ、と先に立ち上がると空を捨てに一足先に出口へと向かう。
「え、あ、うん」
何にもわかってない、と言われても。突然言われて固まっていた私だったけど、彼の声に慌てて携帯とボタンをカバンに入れる。ドアの前に立っていた彼は、私が来たのを確認してドアを開けてくれた。
外に出ると、太陽の温もりを乗せた風が髪を揺らした。
「先輩、寒くない?」
「え?」
何を言うのかと思えば、寒くない?だなんて。青空を見上げて、新しく芽吹き始めた木々を見て、最後に彼を見る。
「……いや、寒くはないけど」
「……」
「え、なんで、リョーマは寒いの?風邪?」
先に歩き始めてしまったリョーマを追いながら言葉を続ける。こんな卒業式日和なのに、寒いというのは流石に…。
「俺は別に寒くないけど」
「本当に?」
「……先輩は、寒くないの?」
ぱたりと足を止めた彼がもう一度聞いてきた。寒くないの、と聞かれれば寒くはない、けど。
「さ、寒いかも…」
よくわからないけど、とりあえず寒いと言う事にした。私の答えを聞いたリョーマは、ふーんと気分の良さそうな声を漏らして学ランを脱ぎ始める。
「それなら貸してあげる、これ」
そっと肩に乗せられた学ランからするのは大好きな彼の香り。今まで着られていたお陰で確かに彼の温もりを感じるけれど、それはきっと肌に感じるものだけじゃないだろう。
満足そうに私を見る彼の髪を撫でるのは、暖かくて優しい春風だった。