俺は、彼女の事をほとんど知らない。
好きなお菓子は知ってる。でも嫌いなお菓子は知らない。
好きな歌は知ってる。でもカラオケで歌う曲は知らない。
嫌いな食べ物は知ってる。でも、彼女が何故俺を避けているのかは知らない。
しかしそんな俺でもわかる。佐野さんは今日、体調が良くない。理由も何処か痛いのかもわからないけど、いつもは友達の所へ行く休み時間もずっと机に突っ伏しているし、今まさに行われている体育の授業前には友達が来て、休んだ方がいいんじゃない?と聞いていたからだ。

今日の朝、テレビでは梅雨明けが発表された。梅雨明けとは特に明確な規定がある訳でなく、発表されない年もあるらしい。そんなぼんやりとした表現を言われただけなのに、いつもよりも太陽が熱く照りつけている様な気がするのは俺が単純だからなのだろうか。

「あちー…」

空を見上げるまでもない。視界に入る空の何処にも雲らしい雲はなく、ただ青いだけの空。
着替える時に友人に聞かれた、丸井ってカノジョ出来たの?という質問は額に滲む汗と共に身体から溶け出ていく。こんな根も葉もない噂なのに、1ヶ月も多方面から聞かれているのだから驚きだ。俺の何処かから根や葉が生えているとでも言うのか、と自分の行動を一瞬振り返って見たものの、どうでも良くなって直ぐにやめたのは既に1ヶ月以上前の事だった。

正直言って俺にカノジョが出来ていようがいまいが周りには関係無い。そんな事よりも今の俺にとって重要なのは彼女がどうしたら俺と言葉を交わしてくれるか、だ。別に嫌われている訳では無いのだろうと思った先日の消しゴム事件の後も、彼女は変わらず友達の所に行っている。それどころか最近は、彼女の友達に何度か睨まれる事すらあった。やはり何かしたのかもしれない。しかしそれでも何も、避けられる様な、睨まれる様な事は全く思い当たらないのだ。そしてそれが尚更、彼女へと声を掛ける事を思いとどまらせていた。

「……」

今日の体育は陸上競技。女子は向こうで走り高跳びと幅跳びを、男子はハードル。そこまで楽しいものじゃない。むしろもう数時間もしたらまた外で部活をするんだから、と思いながらTシャツの袖で汗を拭う。

先生の指示に沿ってハードルを設置し、順に走っていく。白いハードルを越えていくのは俺の中で何かを思わせる程のものではなく、太陽の熱が暑いって事と、空が青いって事くらいしか俺の頭の中には無かった。

走り終わると、女子が高跳びをしているのが目に入った。足が止まる。丁度、彼女が走る番だった。女子しかいないからか、幾分その顔は綻んで見える。友達が飛んだのを見て笑って手を叩いているのを見て、羨ましいと素直に思った。
佐野さんは先生に声を掛けられ、高跳びに向かい合う。その時に一瞬下を向いた彼女に、何故か嫌な予感がした。
走り、地を蹴って跳んだ彼女の身体は無事にバーの上を越える。そうしてマットの上に落ちた佐野さんを見る俺の足は、俺の次のハードルの走者が来たのがわかったけれどぴくりとも動かない。……起きれる、よな。先程までの隣の席を思い出す俺を他所に、彼女はマットの上で身体を動かした。
ああ、なんだ。俺が思ったよりも彼女の具合は悪い訳ではないのかもしれない。そう思っているのに俺の足は動かず、目も動かず、彼女を見つめたままだ。俺の後に走り終わった人も、俺の横を通過してスタートラインへと戻っていく。

彼女も同じくマットから降りて、もう一度列へと向かおうとする。

「……っそだろ!」

思わず声が出た。マットから降りて立ち上がろうとした彼女は、そのまま、膝から崩れ落ちたのだ。

気づいたら走り出していた。あっという間に倒れる彼女の元に辿り着く。周りにはまだ誰も居なかった。

「大丈夫か?」

声が出ないかと思ったけどそんな事は無かった。彼女の前に行くと自然と声が出た。

「……ん、大丈夫」

意識はあるらしい。本人は答えながらマットに掴まって立ち上がろうとするけど、全く力が入らずにその場から動けなかった。

「おい、無理すんなって」
「ううん。本当、大丈夫だから」

そう言って初めて顔を上げた彼女は、酷く辛そうに眉を顰めながら、笑って見せる。

……大丈夫じゃないだろい、それ。
そう思った瞬間、俺の中でふ、と何かが吹っ切れた。彼女の首と膝の裏に手を入れて、そのまま力を入れる。

「え?」

グンっと急に浮いた自分の身体に驚いた様に周りを見渡す。俺も気づかなかったけど、周りには他の女子と先生が集まってきていた。そしてどうやら先生は、彼女の友達から体調不良だった事を聞いたらしい。平気だという彼女を宥めた先生に、そのまま保健室に連れて行って欲しいと頼まれた。

「ごめんね」

離れた事で余計に背中に注がれるクラス中の視線を感じる、くらいの平静が俺にはまだあるらしい。

「具合悪いの気づいてたし、気にする事じゃねーよ」
「……本当にごめん」

噛み締める様に彼女はもう一度告げた。

「……ん」

彼女の方を見て答える事は出来なかった。彼女はどんな顔をしているだろう。何を思っているだろう。腕に掛かる重さは居間で眠ってしまった弟達のそれとは随分と違うけど、彼女だと思うと全く嫌じゃなかった。


「すいませーん、先生」

急患です、と続けて発したのは漸く辿り着いた保健室の前。直ぐにドアが開けられ、不思議そうな声で返事をした先生だったけど、開けた途端にギョッとした表情で俺を見た。わかる。俺ももし、俺みたいな奴が立ってたらギョッとする。

「……じゃあ俺、戻ります」

彼女をベッドに下ろした時に初めて彼女の顔を見た。自分の首から離れていく俺の腕を目で追った彼女は俺と目が合って、直ぐに目を伏せた。

「あ、丸井くん」

先生と話し始めた彼女はそれを遮り、俺の名前を呼んだ。その声に反応して弾けた様に振り返った俺が彼女の目にどう映ったのかはわからない。

「本当にありがとう」

ごめんね。そう言った佐野さんはやはり辛そうな顔をしていた。そして悲しそうにも思えた。それは恐らく、具合が悪いからという理由だけではないのだろう。

「いいよ」

出来うる限り口角を押し上げて返事をする。

別にお礼が言われたくてした訳じゃなかった。
かと言って、何度も謝られる様な事でもない。
……何でだよ。謝られてもなんて返せばいいんだよ。
玄関で一人吐いたため息は、静かな校内に溶けていく。

その理由がわかったのは、それから2日後の事だった。

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