「おはよ」

遠くで聞こえる声は、俺に向けられたものでは無い。それなのに俺の耳は友人と話しながらも自然とその声を拾ってしまう。

佐野さんと会話する事が無くなり、もう1ヶ月以上が経過した。季節は夏に移り始め、窓から射し込む陽射しは心地好いだけのものでは無くなりつつある。

彼女に言われて見ていたドラマは随分と話が進んだ。始まりが春だった季節は夏休みになり、ヒロインの女の子は自身が再会した幼馴染を好きである事を先週の放送で漸く自覚した。ドラマの中ではとんとん拍子に話が進む。
恐らく俺達が見えない部分に色々な事件や悩みが彼等なりにあるのだろう。それでも再会した彼等が再び仲良くなり、離れてもヒロインへの想いを忘れずにいた幼馴染にヒロインは惹かれていく……今の俺達とは、全然違っていた。

どれだけ考えても彼女が変わってしまった理由がわからなかった。俺が何かをしたのかも、彼女に何かあったのかも。それを確かめる術は俺には無く、しかし例えあったとしても知ろうとは思わなかっただろうと思う。きっといつの日にか消えていく想いだろうと思ったからだ。
遠くで笑っている横顔を眺めるだけ。
授業中に教科書の内容を声に出し合うだけ。
俺は暇なら外を見て、眠ければ伏せて寝る。
彼女は授業が終われば友達の所に行くか、伏せて眠る。
同じ毎日が繰り返される日々。話せば話す程楽しくて、知れば知るほど知りたくなったあの日々はまるで夢だったかの様に消えてなくなった。

しかし夢では無かったのはわかる。俺が毎週欠かさず見ているドラマが何よりの証拠だった。
それでもあれは、たかが数日間の事だったのだ。佐野さんとちゃんと話したのも、挨拶を交わしたのもたった数日間の出来事。そして今はその数日間の前に繰り返していた日々に戻っただけだ。何も変わっていない。彼女が俺に初めて笑顔を向けてくれた日の前に戻った、それだけの事。
別に彼女と話さなくても、友人と話したり部活があれば毎日は楽しい。それは彼女が隣の席になるまでずっとそうだったのだから、間違いないのだ。

しかしクラスが全体的に馴染む様になってきた今でも、彼女は変わらず他の男子とは話さない。それを見て何処か安心している俺がいる。授業中に他の男子が発言した事で彼女が笑っていると、それだけで心の奥が少しだけ濁る感覚になる。

いつになればこの想いは消えるのだろう。たったの数日間の事に思いを馳せなくなり、どうせ来ぬ彼女が笑顔を向けるという明日を待たなくなるのだろうか。

陽射しが強い今日は、昼頃からカーテンが引かれてしまった。外を見る事も叶わず、眠くもない。暇すぎてノートの端に絵でも描いてみた。脳内には完璧なキャラクターが浮かんでいるのに、俺の手が描くと全く違うものになるのは何故なのだろうか。長く俺の中に宿るミステリーだった。

キャラクターになるはずだった絵を消し、消しカスを払う。事件が起きたのはその時だった。
消しカスと共に消しゴムまで飛ばしてしまったのだ。無意識で払う消しカスはその辺に落ちるのに、その対象が消しゴムとなるとそんなにも威力があるのか、と我ながら驚く程勢い良くそれは飛んで行った。ゴムという性質も相まって、弾みもついて彼女の隣の席の男子の下まで飛んで行ってしまった。

「……」

マジかよ、めっちゃ飛ぶじゃん。いや、つーかそれまで何にも当たらねえのもすごいわ。消しゴムを落とした事実よりも、そこまで飛んで行った事に思わず我ながら感動した。

「……」

……えっ。不意に彼女がこっちを向いた。俺と目が合ったかと思うとそのまま机の上を見て、消しゴムが飛んで行った方を見る。何度か机の上と消しゴムを交互に見て、彼女の身体が動いた。

「…れ、けし…、…くんの…」

所々しか聞こえて来ない彼女の声だけど、何を言っているのかは大体予想がつく。隣の男子はそれを聞いて机の下にある俺の消しゴムへと手を伸ばした。

「ありがとう」

彼の手から彼女の手へと消しゴムが渡る。小さく頭を下げる彼女に、思い浮かぶ事がある。しかしそれは、こちらへ再び振り向いた彼女と目が合って全て吹き飛んでしまった。

「はい、」

消しゴムを俺に向けながら彼女がその後に続けて放った言葉は、先生によって遮られてしまった。問5を解き、答えを黒板に書いてもらう、と言われて彼女はハッとして前を向く。そんな彼女を俺は眺める。

「……あ、びっくりした」

先生が言った事を理解し、ポツリと一言。そしてもう一度、俺へと手を伸ばす。

「はい」
「わり、サンキュ」

彼女は知らない。今俺、ちゃんと笑えてる?そんな事を俺が気にしているなんて。

「ううん」

問題を解く時間になり、静かだった教室内に少し他の生徒の声がし始める。
首を横に振った彼女は、屈託なく笑った。

「それ、凄い飛んだよね。びっくりしたよ」
「……あー、な。俺もびびったわ」

私の下からいきなり出てきたからびっくりしちゃったけど、よくよく考えると結構面白いよね。先程まで俺の消しゴムがあった所を見て、再び笑いを零す。

「ああまあ、確かにそうかも」

彼女の笑いに応えるように自然と俺も笑顔になる。そしてその後直ぐに彼女は教科書へと顔を戻し、俺も同じく問題へと向かい合う。しかしただでさえ意味わからない数式が、今日は余計に入って来ない。

でもそれは当たり前だった。俺の脳内は今、彼女でいっぱいだからだ。目が合って、笑い合う。こんな当たり前な事なのに、どうしようもなく嬉しく思えるのだ。

彼女は知らない。ずっと消えなかった俺の中の想いに再び火が付いたことを。
俺は知らなかった。俺が彼女の事を、こんなにも想っていた事を。


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