「おはよ」
隣の席へと歩いてくる音の方を向くと、丁度佐野さんが机の上に荷物を置いていた。俺の声に合わせるように、前の席を借りて話していた俺の友人も同じく彼女に声を掛ける。
「あ、おはよー…」
そう俺達を見て返事をした彼女だったけど、俺には笑って、友達には気まずそうに苦笑いをして見せて小さく会釈をして、そのままいつもの友達の所へと向かった。何も言わずに友人が俺へと目線を向ける。俺から遠ざかっていく彼女の背中を見つめながら、俺は口元に力を入れた。
オススメのお菓子を貰うと約束をした月曜日から、彼女とは少しずつ話せる様になった。ちなみにおはようと挨拶をしたのは三日前が初めてだ。しかしその時にまだまだ驚いた表情を隠せない彼女を見ると、挨拶を言うまでの俺の苦悩は伝わっていないんだと安心した。
佐野さんの方から俺に声を掛けて来る事はない。それでも良かった。好きなお菓子を始めとして、好きな芸能人、好きな歌、好きなスポーツ、嫌いな食べ物。俺の中で彼女が少しずつ、でも確実に増えていくのが堪らなく嬉しかった。
「土曜日のドラマ見た?」
休み時間、友達の所へ向かう訳でも寝る訳でもない彼女へと声を掛ける。
このクラスになり、1ヶ月以上が経過した。いつも佐野さんが休み時間に向かっていた友達は、どうやら前の席の男子と仲良くなったらしい。友達がその男子と話しているのを見ると、気を使ってなのか、はたまた男子と関わりたくないからなのか。自分の席にいるままの事が増えた。
「あ、見たよ!凄くドキドキした!」
「へえ…例えば何処で?」
「えー、うーん……全部!」
そうおどけた様に笑みを零した彼女の事を何でも知りたいと思う様になった。知れば知るほど欲が出る、って事なのかもしれねえけど。
「丸井くんも、ほらあの丸井くんが好きな女優さん、可愛かったよね」
誰だっけと悩む表情も、思い出して明るくなった顔つきも、そしてそんな彼女を見て俺自身がこんな風に思うのも。全くそんなつもりなんか無かったのに、彼女を見れば見るほど他の誰にも感じた事のないものが俺の中の何処からか湧き出てきて止まらないのだ。
「ああまあ、好きっつーか、可愛いって思うくらいだけど」
何気無い一言が気になって無駄に否定してみた。そうなんだ、とすんなりと受け入れる彼女には俺の気持ちは一切伝わっていないだろう。
「でも来週も楽しみだなぁ、早くならないかな」
独り言のように呟く彼女の、楽しそうな横顔を眺める。友達と居る時にしか見せなかったこの横顔は今、俺の目の前でも見せてくれている。
「丸井くんも楽しみ?」
「え?」
「……あ、ううん。なんか丸井くん、嬉しそうだから」
慌てて首を横に振り、そう言って俺から目を逸らす彼女の視線は自分の筆入れに注がれた。
「あー、それはそうだけど」
俺もつられるように、自分の筆入れを開けてペンを取り出した。
これは確実に漏れ出ている、と思った。俺の中の何処からか湧き上がってくるものが、俺の中で収まっていない。そして彼女にまで伝わるほどなのだ、と。
「でも俺、今週末大会だから見れるか微妙なんだよな」
「……そっか」
彼女が返事をして、俺達の中には暫く沈黙が流れた。
……あ、大会見に来るか聞いてみれば良かった。一人じゃなくても友達となら別に、それに他にも見に来るやついるし誘っても変じゃねーよな。
そう思ったのはその沈黙が本鈴によって破かれた後だった。
次の授業は社会。暇だけど、流石に話せる様な場面はない。ま、でも次言えばいいや。なんなら明日も明後日もまだあるし。つーか誘っても来れるかなんてわかんねーしな。
そうは思っても、彼女がもし見に来てくれるなら。少しだけ浮つきそうになるのを抑えながら窓の外を見る。……あれ、今日って曇ってたっけ。
今日始めて見た窓の外の景色は、どんよりと薄暗く曇った空模様。俺が思い描いていたそれとは違っていた。
先生の声が耳に入り、俺は黒板に目を戻した。
――しかし今週末の大会へと俺が彼女を誘う事も、そして彼女が大会を見に来る事も無かった。