口移しで教えてあげる


(*明確に続きものとは言えませんが、こちらと繋がっていると言えなくもないです)



ヤバいかな、と思わないこともなかったものの、騙し騙しやっていたら、やっぱり本格的にヤバいらしかった。朝から寒気が止まらない上、体の節々まで痛む始末。明らかに風邪だった。
風邪薬を飲んで、余計にボーっとする頭で授業を受けるだけ受けて(内容なんか入ってこない)、まっすぐ珊瑚礁に戻った。そのままバイトに出ようと支度してたら「大人しく休みなさい」とマスターからストップをかけられた。マスター・ストップ? そんな言葉は知らない。風邪のせいか、風邪薬のせいか、それとも、その両方のせいか、頭がうまく回らない。働かない。でも、休みたくはない。

「いいよ、俺やれるよ」
「そんな酷い顔色で何言ってるんだ。今日は大人しく休みなさい」
「でも……」
「でも、もヘチマもない。フラフラしてるじゃないか。皿を割られちゃ適わない。いいから、休みなさい」
「(ヘチマ……?)」

釈然としないものが残るものの、マスターの言い分が圧倒的に正しい気がした(今日ばかりは皿を割らない自信はなかった)。だから大人しく奥に引っ込むことにした。そうしてベッドにもぐりこんだ途端、眠り込んでしまった。意識が暗く沈む。





瞼を開けると、辺りは薄暗い。ぼやけた視界に誰かの顔が見えた。首筋の辺りで切りそろえられた茶色い髪に、とぼけたような黒目がちの目。見慣れた輪郭。あかりだ。

「おはよう、佐伯くん」

あかりの柔らかい声が耳を打つ。

「……おはよう」

うっかり答えて、答えてから正気づいた。あかりは覗きこむようにして俺を見つめていて、当の俺はというと、仰向けに寝ていて…………この位置関係でこの体勢ということはどういうことだ。どういうことだ、なんて考えるまでもない。後頭部に柔らかい感触がある。これは……膝枕だ。

「うわあああ!?」
「わっ」

慌てて飛び起きたら、あかりが驚いたように上半身をのけぞらせた。ぱちぱちと何度か瞬きをして不思議そうな顔をする。

「どうしたの? 佐伯くん」
「いや、どうしたのって……なんで、おまえ、膝枕なんか……」

やたらと胸の辺りがうるさい。今、ゼッタイ顔が赤くなってるに違いない。なんてことだ。あかりがきょとんとした顔で俺を見返す。

「なんでって、佐伯くんが眠ってたからだよ?」
「いや、どんな理屈だよ、それ……」
「膝枕、イヤだった?」
「いや……イヤじゃない、けど……」

むしろ好きだけど。いや、今はそういうことを言ってる場合じゃなくて、だから――なんでこいつはこんなに平然としていられるのかな、と思ってしまう。

「恥かしいだろ、こんなの」
「ほかに誰もいないのに?」

あかりが視線を辺りに巡らせた。このとき初めて、浜辺にいるんだって気づいた。……浜辺? いつの間に? 潮騒の音がやけに耳に響く。辺りが静かすぎるせいだ。あかりが視線を戻して言った。

「ここにはわたしたちしかいないよ、佐伯くん」

――だから誰かに見られる心配とか、しなくていいんだよ。

そんな風に言った。確かに辺りに人の姿はない。いやでも、と思ってしまう。実際に口に出して言ってみる。

「でも誰か見てるかもしれないだろ」

あかりは目を伏せて、ゆるゆると頭を振った。

「そういうことはないんだよ」

あかりの頬の周りで茶色い髪がゆるやかに揺れる。ぽつり、付け加えるようにあかりが言った。悲しそうな声だった。

「もう、そういうことはないんだよ」

月が明るい夜で、あかりの白い頬に睫毛の影が出来た。どこか、いつもと違う雰囲気に違和感を覚えた。

「あかり?」
「来て。佐伯くん」

促されて立ち上がった。あかりが俺の手を取って先を歩き始める。手を繋ぐことに抵抗があったものの、有無を言わせぬ様子に何も言えなくなった。

空は藍色をしていた。まるでガラスで出来ているみたいに澄んでいる。明け方なのか、日が沈んだのか、薄暗い浜辺を二人きりで歩く。時間帯のせいで人通りが少ないんだろうか? 「それは違うよ」とあかりが前を向いたまま言った。

「さっきも言ったけど、ここにはわたしたちしかいないんだよ」
「……それは、どういう意味で?」
「言葉の通りの意味で」

あかりが振り返った。嘘をついてる目には見えなかった。耳を切るような風が二人のあいだを通り抜ける。人気の少ない海辺は、改めて寂しい場所だった。本当に二人しかいないようだった。

「ここにはもうわたしたちしかいない。それで、どうしてそんなことになってるかというと……」

あかりが目を伏せた。次の言葉を迷っているみたいに口ごもってから、言った。

「わたしが、そう望んだから」
「望んだから?」
「……ごめんね」

繋いでいた手が離れた。顔を伏せてしまったせいで、あかりが今どんな表情をしているのか分からない。分からないことだらけだった。今が何時か分からないし、どうしてあかりがここにいるのか分からないし、あかりが言っていることも分からない。二人きり? 他に誰もいない? しかも、あかりが望んだから? 何もかも分からないことだらけだったけど、今はそういうことより――、

「あかり」

俯けた顔の頬に手を当てて、顔を上げさせた。触れた頬が濡れていて、その冷たさに驚いた。泣いている。泣いている気がした。さっき、「ごめん」と謝った声が鼻声だったから。

「泣くなよ……」

弱り切って、頬に手を当てたまま、頬をこぼれ落ちる滴を指先でぬぐった。あかりはきつく目を瞑って、しゃくりあげた。俺の手を取って頬に当てた手を外そうとしたけど、手をどけてやらなかった。いやいやをするみたいに頭を振って、涙をぬぐう指先から逃れようとしたから、もっと力を込めてぬぐった。ぐいぐいと親指でぬぐう。こいつがこんな風に泣いているのを見るのは耐えられなかった。小さい頃の記憶にある面影と重なって胸が締め付けられる。

観念したように力を抜いて、あかりはきつく閉じていた目蓋を持ち上げた。黒目がちの瞳から新しい透明な滴がこぼれた。月明かりの下で水滴がきらきらと光った。――綺麗だな。てんで場違いな感想を持った。

「……泣くなって」
「ごめんね、佐伯くん」
「なんで、おまえが謝るんだよ」
「わたしが悪いんだもの」
「何が?」
「ひどいこと、お願いしたの」
「ひどいこと?」
「佐伯くんと、ずっと一緒にいられますようにって」

はらはらと涙をこぼしながら、そう言った。ちょっと待て……

「それが、ひどいこと?」
「うん、そう」

――そうなのか? 内心、首を傾げてしまう。正直な話、ひどい願い事には思えなかった。むしろ、願ったりなような……。あかりの頬に添えたままの左手の甲にあかりの指先が触れた。ひどく冷たい。すっかり冷え切っているみたいだった。もう一度、目を伏せてあかりが言った。

「とても、ひどいことだったの」

あかりの伏せた目から、また涙がこぼれた。見ていられなくなって、顔を寄せたら抵抗しなかった。濡れた目尻に唇を寄せた。海の水に似た、塩の匂いがした。涙の匂いだ。濡れた睫毛が頬をかすめる。あかりは抵抗しない。目尻から、頬、滴が伝う顎に唇を這わせた。「ごめんね」震える声であかりが言った。「ごめんなさい」

「だから、謝るなって」

至近距離で言った。頬を両手ではさみ込む。あかりは目を閉じたままだ。白い顔の中で唇だけが、まるで珊瑚のように赤い。当てた手の甲にあかりが自分の手のひらを重ねた。そのまま額をすり合わせるようにして顔を寄せてきた。あかりの熱い息を唇に感じた。これは恋人同士の距離だよな……と思いながら不思議なことに抵抗は感じなかった。頭の芯が痺れたようになっていて、深く考えるということが出来ない。

「佐伯くん」
「……何」
「ごめんね」
「もう、謝るなよ」
「それでも、ごめん」
「しつこい」

痺れたような頭で、この唇をふさいでしまえば、もう謝らなくなるだろうか、泣きやんでくれるだろうか、とか、そういうどうしようもないことを考えていた。顔を寄せて、ほとんど条件反射みたいに瞼を閉じたら、やけにはっきりとしたあかりの声が耳を打った。「佐伯くん、」


「夢から覚めても、好きでいてくれる?」





急に意識が浮上するような感じがして、目が覚めた。心臓がやたらとうるさく騒いでいる。汗だくで気持ち悪い。額に、何か、ひんやりと冷たいものが触れた。

瞼を開けると、辺りは薄暗い。ぼやけた視界に誰かの顔が見えた。首筋の辺りで切りそろえられた茶色い髪に、とぼけたような黒目がちの目。春以来もういい加減、見慣れた輪郭。あかりだ。

「おはよう、佐伯くん」

あかりは泣いていない。それどころか、柔らかく微笑んでさえいて、穏やか極まりない。頭が混乱する。じゃあ、さっきのは一体――、

「うなされてたよ」
「……え?」
「ひどい夢でも見たの?」
「……夢」

そうか、夢か。それはそうだ。思い返せば不自然なところがありすぎた。あれが夢じゃなかったら、おかしい。それでも、どうしてか釈然としない。きっと妙にリアルだったせいだ。

「佐伯くん」
「……何」
「おでこ、熱いね」

手のひらを額に当てたまま、そんなことを言う。

「熱があるんだろ、きっと」
「じゃあ、安静にしなきゃ」

そう言って手を離した。少し物足りないような気がするのは何でだ。

「……なあ」
「なあに?」
「いつから、ここに?」
「ついさっきだよ。あ、ちゃんとおじいさんに断ったからね? 不法侵入じゃないよ?」
「どんな言い訳だよ……」

いつものあかりだ。カピバラでボンヤリで、ときどき妙な回答を繰り出してくる、いつもの。

「今、何時?」
「七時ちょっと過ぎくらい」
「ふうん」

じゃあ、ちょっと眠ってた訳だ。それで、妙な夢を見たと。

「で、おまえは見舞いに来てくれた訳?」
「うん、まあね」

誇らしげに少し胸を張る。どうでもいいけど、電気くらいつけたらどうだ。暗闇に目が慣れているとはいえ、辺りは夜。暗い部屋に二人きりっていうのは、状況的にも問題がある。

「まあ、でも」
「?」
「一応、礼は言っとく。サンキュ」

部屋の灯りがついてないのは、多分、寝てる俺を気遣ったからだろうし。誰の情報か知らないけど、わざわざ見舞いに来てくれた訳だし。あかりは照れくさそうに笑う。

「……前に佐伯くんもお見舞いに来てくれたでしょ? その、お返し」
「ふうん」

妙なところで、律儀。ボンヤリなのに、いつもバタバタと忙しくしているイメージ。だから、いきなり風邪で倒れたりする。昨日まで元気に駆け回っていたのに翌週、学校で姿が見えなくて、おかしいと不思議に思う。聞くと風邪でダウンしているらしい。そうしてそのまま数週間寝込んでいたりする。心臓に悪いから、そうやってギリギリまで頑張るのはやめてほしいと思う。

つい最近だってダウンした頑張り屋のカピバラを見舞ったばかりなのだし。手作りのシャーベットを持参して、バイトから抜け出してまで。あかりはヘンなとこで頑張りすぎるし、負けず嫌いだし、強情だ。他人にあまり弱っているところは見せようとしない。

じゃあ、さっきの夢は何だったんだ? あんな風に弱ってるあかりは見たことがない。少なくとも、俺は知らない。でも、こうも思うんだ。ああやって、弱って泣いてるあかりも、あかりの一部分なんじゃないかって。普段、人に見せないだけで。

「それにしても…………」

あかりが急に顔を伏せた。そのまま肩を震わせているから、一体何事だと思ったら、盛大に吹きだした。そのまま笑い転げる。

「な、なんだよ、急に!」
「ご、ごめん……」しかも、涙声。「あんまり、おかしくって……」

急に笑い出されて不愉快にならない訳がない。

「何が?」
「佐伯くんのパジャマ……」
「パジャマ? …………あっ!」
「大怪獣のパジャマ、あげたとき、あんなにイヤな顔してた癖に……」
「いや、これはその、たまたま……つーか、おまえ自分でプレゼントしておいて、そんなに笑うな!」
「ふふっ、ごめん、ごめん」

大失態だ。たまたまにしても、大怪獣柄のパジャマ……高校生にもなって、こんな柄のパジャマというのは、ちょっと、あり得ない。それでも捨てずに取っておいたのは、このふざけた柄の寝巻をプレゼントしてきたのが、他でもない目の前のカピバラ……もとい、あかりだったからだ。

「ね、佐伯くん」

まだ笑いの余韻が残る声であかりが俺の名前を呼んだ。思わず憮然とした顔で答えてしまう。

「何だよ、カピバラ」
「佐伯くんの、そういうヘンに律儀なとこ、好きだよ」

見ると、あかりは全く穏やかに笑いかけている。多分、裏表も何もない、心からの台詞。

「そういうとこって何だよ」
「別に? ……好きだなあって、思っただけ」
「ウルサイ」
「佐伯くん」
「何だよ?」
「プレゼント、ちゃんと使っていてくれて、うれしい」
「ああ、そう……」

あかりは笑っている。笑い過ぎて、目尻に涙を浮かべているものの、笑っている。悲しくて泣いている訳じゃない。あの夢の中みたいに、悲しくて泣いてる訳じゃない。そのことに安堵してしまう。こうやって下らないことで笑っていてくれることに安心してしまう。

分かってる。やっぱり、このニヤニヤ顔が好きなんだって。この笑顔を維持するためなら、何でもしてやりたいって思えるくらいには、あかりの笑顔が好きだ。まだ、口に出せそうにないけど、いつか、ちゃんと言える日が来たら良い。いつか、きっと。必ず。

「佐伯くん」
「何」
「ゼリー作って持ってきたから、後で食べてね?」
「ああ、うん……サンキュ」
「本当はわたしもシャーベット作って持ってきたかったんだけど、難しくて作れなかったよ」
「当たり前だろ。100年早い」
「ひどい言い方」

あかりがくすくす笑った。辺りがその音で満たされるようだった。電気もついていなくて、辺りは薄暗いのに、そんなことも気にならないくらい明るい気分。

「さ、風邪引きさんは大人しく寝ること!」
「はいはい……」

半身を起したままだった姿勢を崩して、もう一度ベッドに横になる。保護者モードなのか、なんなのか、ご丁寧に布団を肩までずり上げようとするあかり。なかなか複雑な心境。嬉しさよりも気恥かしさが上回って余計に熱が上がった気がする。

「おやすみ、佐伯くん」
「ああ、うん……おやすみ」

言葉に促されるように目を閉じた。視界が暗くなって、またすぐに眠くなった。瞼の裏の暗闇に、夢の中で泣いていたあかりの姿が浮かぶ。釣られるように、耳の奥で最後に言われた台詞が自動再生される。『夢から覚めても、好きでいてくれる?』そんなこと、訊かれるまでもない。

「俺も、好きだよ」

呟きは瞼の裏の暗闇に呑まれる様に消えていく。――ちゃんと聞こえていたら、いいんだけど。そんなことを考えながら、もう一度眠りについた。今度は夢も見ないほど深い眠りだった。



[title:にやり様]2011.03.24
*佐伯くんsideで夢のお話
*image: AKG♪さよならロストジェネレイション

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