あまい、ひみつ、キス。


昼休みの屋上は人気のランチ場所で、お弁当を持った生徒たちで賑わう。けれど放課後まで屋上へ来る生徒は少ない。梯子を上って給水塔に上がればグランドから姿を見られる心配もなくなる。そういう次第で、放課後いつものように女の子たちに囲まれて困った顔をしていた佐伯くんを連れて屋上までやってきた。

「なあ、どこ行くんだよ」
「屋上。あんまり人がいないから、良い隠れ場所だよ」
「ホントかよ……」
「ホントだよ」

金属製の重たいドアを開ける。いつもの通り人影はない。眼下に学校のグランド、羽ヶ崎の街並み、そして海が見える。わたしたちの頭上を風が通り過ぎていく。

「確かに人はいないみたいだけど……」と佐伯くんが屋上を見回して言う。
「何で知ってたんだ?」
「よく来るから」
「一人で?」
「うん、一人で。どうして?」
「いや、別に。何でもいいけど……」

何でもいい、と言う割に佐伯くんは釈然としないような複雑そうな顔をしている。
「あのね」と水平線の先にある海を見つめながら言う。

「ここからだと海がすごく綺麗に見えるんだよ。海が夕焼け色に染まって」

放課後に一人で屋上に上ることがよくあった。夕日に染まる海がよく見える場所で、好きな場所だった。

「ふうん」と佐伯くん。少ししてから「じゃあ、見てくか」と呟いた。

「えっ?」
「何だよ、その反応」
「だって、時間いいの?」
「まあ、よくはないけど……少しだけな?」

――そっか、少しだけか……。胸の内で呟く。それはそうだよね、と内心で頷く。頷きつつ、少し残念だな、と頭の片隅で思ってしまった。例え少しのあいだでも、こうして放課後を一緒に過ごせるなんて、なかなかないことだ。それだけで十分うれしいはずなのに、そんなことを思ってしまうなんて。
強い風が髪を掻きまわしていく。見上げた空は、まだ白っぽい水色。でも、きっとじきに夕暮れに染まる。



からから、と手に持った缶を振る。開けた蓋から赤く透けるキャンディが転がりだす。苺味だ。口に放り込むと、隣りにいる佐伯くんと目が合った。目が、何だそれ、と言っている。

「ドロップキャンディだよ。食べる?」
「ああ、うん……缶入りって懐かしいな。何か、久々に見た」
「手、出して」

差し出された手のひらの上で缶を振る。からから、という音と一緒にドロップが一粒転がる。白。透明じゃないから、これは……、

「薄荷かな?」

佐伯くんが口に放る。

「うん、薄荷味だ。ラッキー」
「薄荷、好きなの?」
「うん」

子どもの頃、薄荷味のドロップだけ最後まで残っていたのを思い出す。出てきても食べないで避けてしまっていたからだ。独特のスースーした感じが少し苦手だった。

「小さい頃ね」
「うん」
「薄荷味のドロップ、食べれなかったなあ……」
「マジで? 薄荷はアタリだろ?」

心底信じられない、という顔で佐伯くんが言った。あんまり真剣な顔だったので、少し笑ってしまった。佐伯くんは「何だよ」と憮然とした顔をする。「ううん」とわたしは頭を振る。

「なんでもないよ。ただ……小さい頃、佐伯くんが一緒にいてくれたらよかったのになあって思って」
「……何で」

佐伯くんは幾分真剣な顔になって訊いた。佐伯くんがどうしてそういう表情をするのか分からなかったけど。わたしは佐伯くんの顔を覗きこんで悪戯っぽく笑ってみた。

「薄荷味のドロップ、代わりに食べてもらえるから」

「そんな理由かよ」と佐伯くんはぼやく。でも、本当にそう思う。小さい頃、一緒に過ごしたかったな。



海が夕焼け色に染まっている。やっぱり、綺麗。
「知らなかったな」と隣りで佐伯くんが呟いた。「ここから見える海も綺麗なんだな」
「そうだね」
「なんか、意外だった」
「どうして?」
「学校にもこういう場所があるんだな。なんか、ホッとする」
――海が見えるせいかな。そう呟いた佐伯くんの声がやさしい。学校ではあまり耳にすることがないくつろいだ声だった。一緒に屋上に上れてよかったかも、と思った。



隣りから、からから、という微かな音がする。口の中でドロップを転がす音だ。見上げてみる。海を眺める佐伯くんの髪の毛が夕日色に透けてきらきらしている。……薄荷味のドロップっておいしいのかな。口元を見つめていたら、横目で睨まれてしまった。

「なんだよ。なに見てんだ」
「……ドロップ、おいしいのかなあって」
「おいしいっていうか……まあ、甘い」
「甘い? 薄荷なのに?」
「薄荷だけど甘ったるい。こんな味だったっけか?」

佐伯くんは首を傾げてる。訊かれても分からない。わたしもしばらく薄荷味のドロップは口にしたことがないから。

「どんな味なの?」
「いや、どんな味って……今度自分で食べてみたら良いだろ」
「それはそうだね」

でも薄荷が出てくる確率とか考えると一体いつになるのやら。そのうち忘れてしまいそう。佐伯くん曰くわたしは忘れっぽいらしいから。

「……なあ」
「なあに?」

佐伯くんが気難しげな顔でこっちを見つめている。どうしたんだろう? 不思議に思って見つめ返していたら、ためらいがちに佐伯くんが言った。

「試してみる?」
「えっ?」

何を試すんだろう。分からなくて訊き返してしまう。沈黙が二人のあいだを流れる。佐伯くんが先に目を逸らした。

「…………いや、やっぱ何でもない」
「佐伯くん?」

何だろう? 佐伯くんはときどき言葉少なになってしまうから、言いたいことが分からないときがある。今もそう。不機嫌そうに眉をひそめて目を逸らされてしまった。
横を向かれてしまったせいで、どんな表情をしてるのか分からない。どうしちゃったんだろう。そんなに怒らせるようなこと、しちゃったのかな。わたしは直前の会話を思い出してみることにした。

ええと、確か……佐伯くんが『試してみる?』って訊いてきて、わたしが『えっ?』って訊き返したら、佐伯くんが怒っちゃったんだから……その前の会話に原因があるのかな? どんな話をしてたんだっけ……。

口の中の、もう大分小さくなってしまった飴を転がす。からから、と微かな音がした。そうだ、さっき佐伯くんの口元からも同じ音がして、それで、わたし、訊いたんだ。


『どんな味なの?』


「…………あっ!」

びっくりして声を上げたら、隣りの佐伯くんもびっくりしたらしい。

「な、なんだよ、いきなり!」
「さ、佐伯くん、佐伯くん!」

佐伯くんに詰め寄る。佐伯くんは上体を少し後ろにのけぞらせて距離を置こうとする。その顔が夕日色に染まっている。夕日のせいだけで赤い訳じゃない、というのはさっき気づいた。気づいてしまった。

「薄荷味、試したい」
「…………はっ」

佐伯くんは何度か目を瞬きさせて、それから、ため息をついた。

「おまえなあ……今頃気づくってどうなんだ、それ……」
「だって、佐伯くんの言い方、分かりにくいんだもん」
「仕方ないだろ。恥かしいんだから」

でも、ホントに分かりにくい。『試してみる』だけじゃ何を試すのか分からない。

「主語の欠落は欠点扱いだよ佐伯くん」
「テストじゃないんだからいいだろ」

難しげに眉をひそめて佐伯くんが言った。目が合った。佐伯くんが左手を伸ばして、わたしの頬に添えた。触れるか触れないかの微かな感触がくすぐったい。鼻先がくっつきそうな距離。自分の心臓が耳元で鳴ってるみたいに、うるさい。

「目、閉じないのかよ」
「どうして?」
「こういうときは、そうするもんだろ」
「そうなの?」
「そうなの」

息もふれ合う距離でこんな会話。仕方なしに目を閉じた。逡巡するような気配を瞼越しに感じる。あ、薄荷の匂い。――唇に何か触れて、離れた。閉じていた瞼を持ち上げる。

「……佐伯くん」
「……なんだよ」

まだ近い距離のまま。焦点の合わない目で見つめあったまま言った。

「あれだけじゃ、分かんないよ?」

佐伯くんが、ぐっと言葉に詰まる。「……分かった」押し殺したような声で言った。あ、負けず嫌い発動、かな?

「んっ」

ぐい、と顔を上向けさせられ思わず開いた唇に口づけられた。触れるだけじゃなく舌先が割り込んできた。濡れた部分が触れ合う。感触に驚いて胸を押したら、あっけなく離れた。離れる瞬間、ちゅ、と少しかわいらしい音がした。頬から火が出そうに熱かった。

「さ、佐伯くん……」
「……なんだよ」

息を整えながら困り目で見上げると、佐伯くんの顔が夕日よりも赤く染まっている。それを見たら少しだけ落ち着いた。佐伯くんも照れくさいみたい。
口の中に何か違和感。小さくなった飴が二つ。二つ? あ、そっか、と思いだす。試してみるかって訊かれたんだった。舌で飴を転がしてみる。感想を伝える。

「やっぱり、変な味」
「おま、おまえなあ……」

佐伯くんが肩を落とす。「地味に傷つくぞ、それ……」とぼやく佐伯くんに頭を振って告げる。

「佐伯くんのことじゃなくて、薄荷のことだよ?」
「……いや、それは分かってるけど。でも、そういう言い方ってないだろ」
「そうかなあ……」

舌先に残る味を確かめる。すーすーして、甘い。そういえば、小さい頃に食べた時より、甘いかも?

「甘い味がした」
「?」
「感想。佐伯くんが言った通りだったね。子どもの頃より甘い味がするかも」
「……苺のやつ、一緒に舐めてるからじゃないのか?」
「あ、それでかなあ?」
「そうだろ」

そっか、それでかあ。味覚が変わったのかなって思ったのに。少し残念。
ふと、不思議に思ったことがあったので、訊いてみた。

「……佐伯くん?」
「何だよ」
「どうしてわたしが苺味の舐めてるって分かったの?」

佐伯くんが言葉に詰まる。気まずそうに視線を泳がせて言った。

「その、さっき……したとき、苺味だったから…………」

あ、それでかあ、と思った途端、チョップされた。

「痛っ」
「つーか言わせんな、こんなこと!」
「チョップしなくてもいいでしょ!」

痛む頭をさすりながらぼやく。眼下には夕焼けに染まってキラキラと輝く海。綺麗だなと思う。

「……初めてのキスはレモン味って、よく言うよね」

佐伯くんがせき込んだ。

「レモン味じゃなかったね?」
「じゃあ、何味だって言うんだ」
「薄荷味じゃない?」もしくは苺味。
「ああ、そう……」

佐伯くんが背を向けた。「そう思ってるなら、そう思っておけよ」意味深な言い方。ああ、そうか、と思いだす。

「佐伯くんはあるんだもんね、“ちょっといいキスの思い出”」
「それは、まあ、そう、だけど……」
「どんな味だったの?」
「味って、おまえ……」
「知りたいなあ」
「強いて言えば……涙味?」
「……なんか、大人な感じだね?」
「おお。まあな」

なぜに誇らしげ。わたしはため息をついて、伸びをした。

「……そろそろ戻る?」と訊く。「あ、ああ、そうだな」と佐伯くんが頷く。給水塔を先に降りて、さっさと扉を開ける。「あかり」と名前を呼ばれた。

「何ですか、“大人の佐伯くん”」
「もしかして、すねてる?」
「すねてないもん」
「いや、すねてるだろ。明らかに。あのさあ……」
「なに」
「言い訳にしか聞こえないかもしれないけど、おまえの考えてるようなのとは全然違うからな? 純然たる勘違いだから」
「だから?」
「だから、気にするな」

わたしは改めて、目の前のやけに真剣な顔をした男の子を見つめた。夕日を背にして逆光になって表情が見えにくい。ぱちぱち、何度か瞬きをする。不思議な感覚。小さい頃にもこんなことがあった気がする――

「おい」
「えっ」
「ボーっとすんな。いきなり」
「う、うん……」

何だろう、急にドキドキしてきた。佐伯くんが懐かしい誰かに見えた。誰か、が誰なのか、分からなかったけど。

「大体、さ」
「なあに?」
「初めてじゃないだろ」
「えっ?」
「いや、だから一年の春に一回……」
「でも、あれはノーカウントだって佐伯くんが言ったんじゃない」
「いや、確かに言ったけど……」
「やり直しのキスは薄荷味、かあ」
「おま、そういうこと言うなって……!」
「どうして?」
「どうしてって、恥かしいし、誰かに聞かれたら、ほら、誤解されるし……」
「学校でキスするのはいいの?」
「……あれは誰にも見られてないからいいだろ」
「ふうん?」
「何だよ、その目は」
「別に。じゃあ、秘密だね」
「そう、秘密な」

佐伯くんを見上げる。目が合う。微笑みかけると、佐伯くんも釣られるように笑った。共犯者の笑みといった風。
屋上と階段をつなぐ扉をくぐる直前、佐伯くんがわたしの名前を呼んだ。「あかり」なに、佐伯くん――振り向いた瞬間、唇に何か触れた。怒ってるのか不機嫌なのか、それとも気恥かしいのか、佐伯くんは眉間に力を入れて気難しげな顔。夕日のせいか頬が赤い。わたしも似たような顔になっているんだろうと思う。

「さ、佐伯くん」
「なんだよ」
「これも誰にも見られてないから、いいの?」
「そう。秘密」
「そっか、秘密」

今日一日でたくさん秘密ができた気分。口の中で小さくなりすぎた飴が割れてしまいそう。秘密のキスの味は薄荷味。それから、少し甘い、苺の味だった。



2011.02.28

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