じゃがいもの芽


――それは食べちゃいけません。毒があるから。


「あっ」


手が滑った。床に落ちたじゃがいもは、ころころと転がって棚の隙間に消えていく。珊瑚礁でアルバイト中、じゃがいもの皮むきをしていたときのことだ。落ちたじゃがいもを探すか、それとも諦めるか、迷っていたら名前を呼ばれた。「すみません、あかりさん、少し手を貸してくれませんか?」マスターだ。「あ、はい! いま、行きます!」エプロンで軽く手を拭いて、マスターがいるフロアに向かった。

そうしてそのまま、

落ちたじゃがいものことは忘れてしまった。





「あ、佐伯くーん!」
「一緒に帰ろうよ〜」


おなじみの女の子たちの声がして、次いで、佐伯くんの声。「や、やあ!」少し引きつったような声。でもすぐに持ち直して、みんなの王子様らしさを取り戻す。女の子たちに囲まれて校門を出ていく後ろ姿を横目に見送った。今日も一緒に帰れなかった。最近ずっと、そう。仕方ないよね、とため息をついた。……仕方ないんだよ。





雑談の延長線上だったと思う。お昼ごはんのすぐあとの化学の授業。日当たりの良い窓際の席は背中がぽかぽかと暖かくて睡魔を助長する。今にも船を漕ぎそうな頭には、若王子先生の話はまるで子守唄のよう。眠りかけの頭に「そういえば」という先生の一言が響く。


「じゃがいもの芽には毒があります」


その一言で眠気が覚めた。毒? じゃがいもの芽に? 


「先生が今より少し若く今よりすごく貧しかった頃、それで大失敗しそうになったことがあります。ある日、先生は部屋の隅に芽を出したじゃがいもが転がっているのを見つけました。じゃがいもの芽ってあんなに伸びるんですね。まるでじゃがいも以外の植物のようになっていて、先生ビックリしました。や、本当の話です。そしてですね、先生はその頃とっても貧しかったので、芽がたくさん伸びたじゃがいもを見つけた途端すっかり嬉しくなってしまいました。なぜなら芽が伸びた分、食べられる部分が増えたと思ったからです。よーし、このまま育ててもっと大きくなってから頂こうと思いました。それから何日か経って、知り合いのお花屋さんと会ったので、先生の部屋で成長を続けるじゃがいもの芽のことを彼に話してみました。その頃にはじゃがいもの芽は本当に立派になって、思わず植物の専門家さんに自慢したくなっちゃったんですね。結果として、それは大正解でした。もっと大きくなったら芽ごと食べるつもりだと言ったら、植物のことに詳しいお花屋さんからものすごい勢いで止められちゃいました。『先生、じゃがいもの芽には毒があるから食べちゃダメだ』って。後にも先にも、彼があんなに慌てた様子は見たことがありません」


若王子先生は一度言葉を区切って窓の外を見た。少し悲しげな目。


「とても残念でした……折角食べられる部分が増えたと思っていたのに。芽の部分には毒があるということですから、芽は勿論のこと、芽の根っこの部分も少し削って食べなければいけない、ということでした。つまり結果的に食べられる部分は大幅に減ってしまった訳です。先生、しょんぼりしました」


先生は窓の外に向けていた目を教室のわたしたちに戻し、少しだけ真面目な調子で言葉を続けた。


「じゃがいもの芽には毒があります。じゃがいもの芽それ自体は小さなものですし、ひとつのじゃがいもに含まれる毒の量自体は微々たるものです。少量であれば、症状も軽度で済みます。しかし、決して侮ってはいけません。摂取量が多ければ死に至る危険もある」


――じゃがいもの芽には毒があります。先生の言葉を繰り返す。途端、おなかの中に氷の粒が入り込んだみたいな気持ちになった。いつか、お店で落としてしまったじゃがいも。きっと今頃、芽が出てる。毒のある芽が。わたしが落としてしまったせいで。もう食べられない。





見慣れた後ろ姿を見つけたから声をかけようとした。

「佐伯く……」
「ねえ、佐伯くーん!」

わたしの声はあとからやってきた女の子たちの声に掻き消された。あ、今日もダメなんだ。ぱたぱたと駆け寄って佐伯くんを囲んだ女の子たちの姿を見届けて、ぼんやり、そう思った。
一緒に帰りたいな。人目を気にしないで隣りを歩きたいな。休日に会う時みたいに。何度か週末デートを繰り返して、距離は確かに縮まったはずだけど、学校ではそうはいかない。その距離がもどかしい。……ちがう、なんだろう、もっと黒くて暗くてもやもやした気持ち。笑顔で話す女の子たちと佐伯くんを見ていると、最近おかしな気持ちになる。胸にイヤな感じがじわじわと広がっていく。すごくイヤな感じ。まるで、そこから毒が滲む出すみたいに。毒のある芽が種を出すみたいに――、


「海野さん」


名前を呼ばれた。名字に『さん』付けで。顔を上げると、優等生スマイルの佐伯くんと目が合っていた。

「……今日、一緒に帰る約束してたよね?」
「……えっ?」

してたっけ? してないはず、なんだけど、だけど、佐伯くんの目が有無を言わせぬ感じで「ね?」と相槌を促す。

「う、うん」

思わず頷いてしまった。よかったのかな……。女の子たちから「え〜、ずるーい」という非難の声が上がる。佐伯くんは優等生スマイルで「ごめんね、またいつかね」と謝っている。……いいのかなあ、これで。胸の奥で何かの芽がちくちくと痛む。

「行こう、海野さん」と佐伯くんが言う。背中に手が当たる。ほとんど無理やり先を促されて歩き出した。



人目がなくなったところで軽くチョップされた。「ぼーっしてんな」だって。「してないよ」と返す。

「してただろ。つか、さっさと助けろよな。おまえの役目だろ」
「……役目?」
「俺が帰り道ああやって女子に囲まれてたら助けること。知ってるだろ、俺が放課後少しでも早く帰りたい理由」
「うん」
「なら協力しろ。共犯者として」
「きょ、共犯者?」

わたしが思わず声を上げたら、佐伯くんがニッと口角を上げた。あ、久々に見たかも。こういう笑顔。

「今のところ秘密を知ってるのはおまえだけだからな。共犯者だろ?」
「共犯者って……何か、人聞きが悪いよ!」
「じゃあ、何ならいいんだよ」
「……パートナー、とか?」
「却下。おまえが俺のパートナーって、百年早い」
「なによ、もう!」

不思議なもので(というか、現金なもので?)、こんな他愛もない会話をしていたら、さっきまで胸にあったイヤな感じはすっかり消えていた。でも、忘れちゃいけないんだと思う。今は息を潜めていても、一度芽を出したことには変わりがない。探してあげなくちゃいけない。毒のある芽の在り処。探して正体を確認しないとダメだ。





「何やってんだ」

棚の隙間、テーブルの下、部屋の隅。方々を探し回っているのに見つからない。床に這いつくばって、いつか落としてしまったじゃがいもを探していたら、頭上から声が降ってきた。

「ちょっと探し物してるの」
「探し物? 何の?」
「その……じゃがいも」
「は? じゃがいも?」

心底不思議そうな声。仕方なしに説明する。いつか、落としてしまったこと。きっとまだどこかに落ちていて、芽を出しているはずだということ。
ひとしきり説明し終わってからの佐伯くんの返答。

「食い意地張ってんな、おまえ」
「食い意地じゃないもん……」
「そうか? でも、食べ物を大事にしようという心づもりはエライな。お百姓さんに悪いもんな」

佐伯くんはうんうん、と一人で頷いている。そういうつもりでも、ないんだけどな、と思うけど言わない。佐伯くんも一緒になってしゃがみ込んだ。

「佐伯くん?」
「探すんだろ?」
「それは、そうだけど……」
「おまえはボンヤリだから、どうせ見落としとか、してんだろ」
「してません!」
「どうだか。……お」
「え?」

佐伯くんが壁と戸棚の隙間を覗きこむ。そこはもう何度も探した場所だ。佐伯くんが隙間に手を伸ばす。

「佐伯くん、そこ、もう探した場所だよ?」
「ほーお? じゃあ、これは何だろうな?」
「え? ……あ」

――じゃがいもだ。ぴょんぴょん芽が伸びたやつ。

「すっごいな。何かもう違う植物だろ、これ……」

救出したじゃがいもを手の中でくるくる回しながら佐伯くんが感想を言う。同感だけど、でも、それでも、これはじゃがいもだ。

「芽、すごいね」
「すごいな。このまま放っておいたら花咲きそう」
「ダメだよ、放っておいたら」

だってそれ、

「毒があるんだよ」

じゃがいもの芽なんだから。
放っておいたらダメだよ。

「ソラニンって言うんだっけ」

佐伯くんが呟いた。わたしは聞き返した。

「え?」
「じゃがいもの芽の毒」
「……知ってたの?」
「いや、常識だろ?」
「……そう?」
「家庭科とかでやっただろ。つか、知らないで言ってたのおまえ」
「ソラニンっていうんだ……」

佐伯くん、知ってたんだ。じゃがいもの毒のこと。知ってるのに、平気なのかな。触ってて。食べなきゃ平気なんだろうけど、でも、あまり気持ちがいいものでもないよね?

「食べられないよね? それ」
「食べられるだろ」と佐伯くん。
「毒があるのは芽だけなんだから、それさえ取ってやれば食えるよ」
「でも、気持ち悪くない?」
「は? 何で?」
「だって、毒なんだよ?」
「だから、削って料理すれば平気だって。大体さ、少しくらい食べても平気だろ」
「……そうかな?」
「そうだよ」
「そっか……」

今日の帰り道のことを思い出す。悪い種が芽を出しそうだったとき、それを取り払ってくれたのは佐伯くんだ。毒がある部分さえ取れば食べられると言ってくれたのも彼だ。「そうかもね」とわたしはもう一度呟いた。なんだよ、ヘンな奴という顔で佐伯くんはわたしを見つめたけど、平気だった。今度は悪い芽は出てきそうにない。いろいろ分かったせいだと思う。

「佐伯くん、ありがとう」
「どーいたしまして。次はこんなヘマすんなよ。じゃがいも落として別の植物を作り出さないように」
「うん、そうだね」

わたしは素直に頷いた。いろいろ分かったこともあるけど、それでも、今度は芽を伸ばさないようにしてあげたい。だって、毒は毒なのだし。

芽が飛び出たじゃがいも。伸びた部分は削って削って、すっかり小さくなって、スペイン風オムレツに生まれ変わって、おいしく胃袋におさまった。



2011.03.05
♪ネタ元はソラニン/AKGだったり

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