野生の女の子



やわらかそうな生成りのシャツの下はビキニタイプの水着だ。
シャツを脱いで、下のデニムのショートパンツも同様に岩場に放って、当人は勢いよく海へ飛び込んだ。
小麦色に灼けた二本の細い足で地面を蹴って、待ちきれないという様子で海へダイブしたのは渚の人魚でも何でもない。

「お兄ちゃーん!」

――妹だ。

春から通い出した中学で鍛えられたらしい水泳部仕込みの綺麗なフォームで水に飛び込んだ妹は、波飛沫のあいだから顔を出して無邪気に手を振っている。合わせて振り返してやらないといつまでも振っていそう……というか経験上、振っているだろうから片手を上げて軽く振り返してやる。波に揺られながら妹が声を上げる。

「ねえ、きもちいーよ。お兄ちゃんも泳いだら?」
「や、遠慮しとく」
「えー?」
「俺はいいよ。ここで見とく」
「もったいなーい」
「だったら俺の分まで泳いでおいで。お兄ちゃんここで待ってるから」

妹は離れた位置からでも大きいと分かる瞳で波間から見上げている。とぷんと水の中に沈むと、次に顔を現したのは、随分と沖の方だった。

「泳いでくる!」

もうすでに泳ぎだしている妹に手だけ振り返して、手の中のテキストに視線を戻した。



5歳年の離れた妹は泳ぐことが何よりも好きだ。
子供の頃からそうだったし、中学に入ってからも毎日のように部活で泳いでいるはずなのに、暇さえあればこうして海に潜って幼い頃と変わらない笑顔を見せる。

泳ぐのは好きだけど、海の方が好き――そんな風にこぼす妹に、基本頑固なはずなのに、愛娘と母親に結局のところ素直に甘い父親は「ああそれは分かる」と頷いてみせる。

「プールの水ってカルキくさいもんな」
「うん、海のにおいのが好き」
「だよな」
「泳げりゃどっちも変わんないんじゃない?」

すっかり意気投合している父親と娘に素朴な疑問をぶつけると、「全っ然違うね」「全然違うよお兄ちゃん!」とハモりながら反論されてしまう。妹はさておき、子供相手に本気で反論するあたり親父は大概大人げない。

「……そこら辺の感覚が全然分からない」
「そうかな?」

洗濯物をたたみながら歌うように言うのは母さんだ。

「凪だって、海が好きでしょう?」

家事をする動作の延長線上、軽く首を傾げて見つめ返してくる母さんの黒目がちでつぶらな瞳を、妹もしっかりと受け継いでいる。
肩に届かない位置で切りそろえた髪型も顔立ちも、見た目は母親そっくりなのに、海によく潜るせいか、妹の髪の色は母親のものより随分と色が薄くて、これまた浜灼けのせいか明るい色をした父の髪の色に近い。
逆に兄の方はというと、体型顔立ちは男親に似たのに、インドア派なせいか髪の色は母親に似たらしい。
一言でいうと、全然似ていない兄妹。見た目上はそれぞれ男親女親の外見をそのまま受け継いで、兄妹なのに似たところは少ない。
けれどさっきの母さんの台詞を反芻する。――凪だって、海が好きでしょう? うんまあそうだね、嫌いでは、ないよ。海の目と鼻の先で、海鳴りの音と潮のにおいになじんで育った。

「まあでも、あの二人には負けるよ」

そうこぼすと、母さんはくすくすと笑う。この笑い方をニヤニヤと形容する人間は、きっとひねくれ者か、あるいは照れているに違いない。



先に家に戻っておやつのプリンを用意しようと冷蔵庫を開けたときだった。
ドアが勢いよく開いて、見るとランドセルを背負った妹が玄関先で仁王立ちしている。泣き出す寸前の顔をしていた。
呆気にとられて言葉を失っていると、妹は「お兄ちゃんのバカ!」と叫んで、それから声を上げて泣き出した。片手にプリンを持ったまま、妹の泣き顔を前にひたすらバツが悪かったのを、よく覚えている。



「お兄ちゃーーーん」

手の中のテキストとノートに集中していたら、妹の声がした。
顔を上げると、いつの間にか波間から顔を覗かせて妹が手を振っている。意識が、懐かしくもバツの悪い思い出から引き戻される。笑顔といっしょに軽く手を掲げてみせる。

「おかえり」
「ただいま! おみやげあるよ!」

妹の目が輝いている。こういうときは要注意だ。

「……何?」
「タコ!」

言葉の通り、腕を上げた妹の手には足の多い軟体生物がうごめいている。笑顔と一緒に言ってやる。

「うんよく捕れたね、分かったから元のとこに返してきなさい」
「え〜」
「え〜じゃないよ。かわいそうだろ」
「捕まったら食べられる……それが自然界の掟……」
「かっこよく言ってもダメ。返してきなさい」

"何者"風のノリを漂わせている妹を諭す。妹は唇を尖らせて不満そうだ。

「お兄ちゃんの石頭」

言いつつ、妹は不運な軟体生物を海に返してやっている。何だかんだと、この妹は素直だ。

「気は済んだ?」
「うーん……大体は」

水に浸かりながら肩をすくめる仕草をしてみせて、妹は水から上がろうと岩場に手をかけた。手を差し出してやると「ありがとう」と言って手をつかんできた。ずっと水に入っていた妹の手のひらは海水に濡れて、ひんやりと冷えていた。

「……おさしみ」
「は?」
「とれたてのタコのおさしみ。お兄ちゃんのせいで食べ損ねた」

よくも言う。
陸に上がった妹は濡れた髪を手で軽く絞って、続けて軽く伸びをする。中学に上がって見た目はすっかり大人びたものの、仕草は未だお子様のままだ。
それならまだ年相応に見た目も子供らしいままだといいのに、背が伸びるのが早かったせいか、見た目だけは大人びている。そのせいか、無自覚で無防備すぎるこの妹が心配でならない。

「からあげも捨てがたかったかな」

まだタコの話を続けている。

「……食いしん坊万歳」
「その分動いてるからいいもん」

言葉通り、水泳部の新入部員ながらすでに頭角を表し始めている妹の体にはぜい肉なんて見当たらない。

「からあげ〜。……あれ、ホントにおなか空いてきたかも。ねえお兄ちゃん帰ったらホットケーキ焼かない? 今ならタコじゃなくてホットケーキで手を打つよ」
「バカ言ってないで帰るぞ」
「焼こうよホットケーキ〜!」

声を上げる食いしん坊万歳のことはもう放っておいて先に歩き出す。元々、夏休みの宿題に根を上げた妹の息抜きに付き合って浜にまで出たのであって、当人の気が済んだのなら早々に切り上げてしまいたい。

「あっ待ってよ、お兄ちゃ〜ん」

思わず足が止まった。妹の声からは今にも泣き出しそうな響きなんて感じられなかったにも関わらず。さっき、自分用の夏の課題プリントと格闘していたとき思い出していた記憶のせいだ。
二人ともまだ小学生で、高学年にさしかかる頃、どんなときにでも兄のあとをついてくる可愛い妹へのお兄ちゃんっぷりをクラスメイトにからかわれて苦い思いをしていた頃のことだ。いつも一緒に帰っていた妹を無視して一人で帰宅しようとした。妹が校庭で待っていたのに。
海沿いの道にさしかかる頃、妹の声が聞こえた。「待ってよお兄ちゃーん」振り返ると坂の上から追いかけてくる妹の姿が見えた。はじかれたように自分も走り出して、呼ぶ妹の声も無視して家に駆け込んだ。……何で、あんなことしたんだっけ。同級生からからかわれて、いつまでも妹といつも一緒みたいなのが照れくさかったのも大きかったけど、少しだけ、妹を構いたい気持ちも混じっていた。先に家に駆け込んで、母さんが用意してくれていたおやつのプリンを冷蔵庫に見つけて、妹が帰ってきたら自分の分のプリンもあげよう、そんなことを考えていたら家のドアが開いた。
――あんなに泣くとは思わなかった。少し意地悪をしてからかってやりたかっただけなんだ。
しゃくり上げながら「一緒に帰りたかったのに」と泣く妹を前にして、罪悪感とバツの悪さにさいなまれた。妹とは5歳年が離れている。子供の頃の5歳差、というのは大きい。
泣きじゃくる妹をなだめながら、妹との年の差を自覚させられた。こんなに小さな子に、自分はなんてバカなことをしたんだろう。「ごめん」もうこんな思いはさせないから。

妹が駆け寄る。あれからすくすくと成長して、今ではすっかり大人びた。見た目だけは。
毎日のように部活で泳いでいるのと、頻繁に海に潜るせいか、妹の髪は幼い頃よりも明るい色をしている。肩に届かない位置で切りそろえられた髪からはまだ滴がしたたっていた。小麦色に灼けた肌に水滴がすべり落ちる。デニムのハーフパンツだけ履いて、あとは水着のままだ。

「……Tシャツ、着ないの?」
「うん、水着が乾いたら着るよ」

妹は頷いて「濡れたままシャツを着ると、べったりして気持ちが悪いんだもん」と続ける。
うんまあ気持ちは分かるけど、さっきから視線が気になるんだ。妹と父親曰く穴場だという岩場は人気が少なかったけど、夏の盛りな今、浜には海水浴客そのほかが多い。……その中でも若い男連中の視線が無防備過ぎる妹の水着姿に集中している気がしてお兄ちゃんは気が気でない。
結局、着ているパーカーを脱ぐことにした。妹の肩にかけてやる。
妹は肩にかけられたものをいぶかしげに見つめ「何これ?」と呟く。兄心、妹知らず。そんなことわざは無い。

「それ、はおってなさい」

視線を逸らしながら、というか周りを警戒しながら言う。

「体、冷えるだろ」

さっき海から上がったとき掴んだ妹の冷えた手の温度を思い出す。
妹はというと、「海の子だから、これくらい平気だよ〜」と暢気に笑って言う。兄心、妹知らず。二度目のねつ造ことわざが頭をよぎりながら、「そういうことじゃなくてさ……」とぼやく。この妹はおそらく多分絶対、周りから集中する視線に気がついていない。これだから、心配で仕方なくて放っておけない。さすがに過保護という単語が脳裏をよぎる。結構。泣かせるよりはマシじゃないか。

「……でも、ありがとう」

パーカーの前みごろを合わせながら妹は軽く微笑んで言った。「別に」と答える。
思い立ったように妹は袖に腕を通して、余った袖を軽くゆすってみせた。そうして感心したような声を上げる。

「結構袖が余るね」
「こう見えてもお兄ちゃんだからね」
「もやしっ子だけどね」
人が気にしてることをさらりと言う。
「分かった。もうおまえの宿題なんか見ない」
「わー! ごめん! それは困る!」

慌てた様子で手のひらを合わせる妹の小麦色の指先は健康的な桜色に染まっている。寒くはないのだと思う。それならいいか、という気が湧く。同時に、このままじゃダメだ心配だ、という気にもなってため息をついた。

「……早く彼氏でも作りなよ」
「えっ何でそんな話になるの?」

確かに唐突ではある。

「海で一緒に遊べて、勉強も見てくれる。そんな彼氏。俺はそろそろおまえの子守は疲れました」
「子守ってひどい! ……んー、でも……」

濡れたままの妹の髪が海風に揺れる。額がむき出しになっているせいで瞳がいつもより大きくなって見えた。

「……そういうのは、今はまだいいかなぁ。海で泳いでる方が楽しいし」
「…………」
「お兄ちゃん、いるし」

ぽつり、と付け加えるように呟いた声は小さくて、見た目よりも幼く響いた。……幼い。それはそうだ、妹はそもそもまだ中学生で、焦る気持ちがあるのは、こっちの、俺の事情のせいだ。
高校を卒業したら家を出ようと思う。市内の大学に目出度く受かったとしても。
一度外に出て、いろいろ勉強してこようと思う。そうしたら、こんな風に妹と過ごす時間も少なくなるだろう。
あれから何年も経って、妹だってもう中学生だ。置いてきぼりをくらって泣きべそをかいていた頃とは違う。それでもやっぱり心配だった。だから、それまでに――。

ぐう、と大きな音が響いた。腹の虫だ。

「……今はホットケーキが食べたいなあ」

さすがに恥ずかしそうに頬を掻きながら言う。

「しょーがない。帰ったら作ってやる」
「わーい!」

日に灼けて、うすくそばかすのある頬に笑顔が浮かぶ。その笑顔には幼い頃の名残がある。あんなに小さかったのに、今はもうこんなに大きい。

「――波」
「ん? なぁに?」

名前を呼ばれて妹が振り返る。輪郭が、沖から注ぐ太陽に照らされて蜂蜜色に溶け込みそうだ。感傷的な気分に流されて、ホットケーキにプリンもつけてやりたくなったけど、確か家にプリンのストックはなかった。それにそもそも、昔の話だ。

「何でもない。帰ろう」
「? うん」
「帰ったら、宿題の続きな」
「えっ! ホットケーキは!?」
「息抜きしたろ。海で泳いで」
「お腹が減って頭が働かないよぉ……」
「知ってるか。そういうの、自業自得って言うんだ」
「お兄ちゃん、パパに似てきたね……」

それはちょっと心外だ。

「作ってる間、手伝いとかしなくていいから、宿題出来るだけしとけよ」

噛んで含めるように言うと、妹は少し考えるような顔をしてから「うん!」と大きく頷いた。基本的に、この妹は素直だ。

「じゃあ、家まで競争して帰ろう!」
「何でだよ。疲れるよ」
「競争楽しいのに。そんなだからもやしっ子なんだよ」
「せめてインドア派と言ってくれ」
「……いんどあ? 英語?」
「……ホットケーキ食べたら、勉強見てやるから、宿題がんばれよ」
「うん?」

そんなことを言い合いながら妹と並んで家路についた。




[title:にやり様]2013.10.29
*ねつ造未来の佐伯家シリーズ。お兄ちゃんと妹さんのお話でした。
*インドア派な兄(見た目テルたん、カラーリングがデイジー寄り)と、アウトドア派で海が大好き野生児な妹(見た目デイジー、カラーリング瑛りん)な感じとなりましたたた。

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