ガラスの人魚に寄せて
「あっ、これ……」
「ん? あっ……」
本棚のそう高くない位置にこっそりと置かれていたガラスの置物には見覚えがあった。ガラスの人魚。忘れもしない高校3年の夏、瑛くんの誕生日に渡したものだったので。
「……物持ちが良いんだね」
「ふん」
見上げると瑛くんは照れくさそうに視線を斜め上の方へ逸らした。その様子が少し面白くてくすくす笑っていたら「ニヤニヤすんな」と怒られてしまった。
あれからもう何年も経つのに、ガラスの人魚像は埃も被らず綺麗なまま。大切にしてくれていたんだと思う。こうして、落ちても壊れない場所で大切に。
「大事にしてくれて嬉しいな」
しみじみそう口にすると「当たり前だろ」という声が降ってきた。
「俺は物持ちが良いんだ」
それから頭に手を乗せられて、頭を撫でられた。ううん撫でられた、というより、髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜられた。
「きゃー!」
ひとしきり撫でて(というかぐしゃぐしゃにして)から、瑛くんはわたしの頭を見ておかしそうに吹き出した。
「ぐしゃぐしゃだ」
「瑛くんのせいでしょ!」
うう……これは再起不能なまでにぐしゃぐしゃにされている気がする……。ひどいや瑛くん。
「はいはい、直してやるよ」
仕方なさそうに瑛くんは言って腕を伸ばした。言葉の通り、髪を手櫛で直してくれている。……何だか照れくさいけど、まるで撫でられているみたいで気持ちが良いかも。髪の毛を指で梳きながら瑛くんがぼそりと呟く。
「……毛繕い……」
「? 何か言った?」
「……いや、何でもない」
何でもない、と言いながら瑛くんは、ぷくく、と笑いをかみ殺している。これはもしかしてもしかすると変な髪型にされているのかもしれない。
抗議をしようと顔を上げると、いたずらっぽい目をした瑛くんと真正面から目が合った。額に手のひらをかざされる。瑛くんの大きな手のひらが額と前髪を撫で上げた。前髪をオールバックにするみたいに押さえられて、おでこがむき出し。すっきりした視界には、瑛くんの楽しげな表情。
「でこっぱち」
「や、やめてよぉ!」
「何でだよ。似合ってるよ」
「笑いながら言われても説得力がないよ!」
瑛くんは楽しそうに声を上げて笑っている。うう……。
「でも新鮮だな。おまえが前髪上げてるの」
そう言って改めておでこと顔をまじまじと見つめられてしまって、何だかとても照れくさい。
「……視界がすっきりした気がするよ」
「そうだろうな」
瑛くんが頷く。そういえば、瑛くんは普段から長めの前髪を真ん中で分けているけど、アルバイトのときはいつもオールバックにして前髪を上げている。高校生だったの頃もそうだったし、今もそれは変わらない。
瑛くんの台詞を頭の中で反芻する。……瑛くんもそうなのかな。やっぱりオールバックにすると、視界がすっきりするのかな。
わたしは普段の瑛くんの髪型も好きだけど、オールバックにしている瑛くんも格好良くて好きだなと思う。瑛くんはどうなんだろう。オールバックにするのは、純粋にお仕事モードへの切り替えのような気がするから、瑛くんにしてみるとどっちが好き、ということではないのかもしれない。
「ね、瑛くん」
「何だよ?」
「瑛くんは、どっちが好き?」
「どっちって?」
「前髪があるのと、ないのと」
わたしはお仕事モードな瑛くんも、普段の瑛くんもどっちも好きだけど、瑛くんはどうなのかな。高校生の頃から(もっと言うと、小さな頃から)ずっと髪型を変えていないし、瑛くんの好みもわたしは知らない。良い機会かもしれないから、訊いてみることにした。
「どっちが好き?」
訊いてみたものの、瑛くんにおでこと前髪を押さえつけられたまま、まじまじとおでこと顔を見つめられてしまって、すごく気恥ずかしくなった。うう……そんなに見つめられるとおでこに穴が開いてしまいそう。
「どっちも好きだよ」
「え?」
「おまえなら、どっちでも良い」
目を細めて微笑みながら瑛くんは言った。
「…………は、恥ずかしいよぉ」
思わず視線を横方向に逸らしながら呟くと、「おま……! 人が折角告白してるのに……!」という瑛くんの抗議の声がむき出しのおでこにぶつかってきた。だ、だって、恥ずかしい。こうして面と向かって、そんなことを言われたら真っ赤になったって仕方ないと思う。
ふと、視界に影が落ちて、額に何かやわらかいものが触れた。瑛くんの唇だと気づいた瞬間、前髪を押さえていた手のひらが離れて、髪の毛が視界を覆い隠した。
急に視界がふさがって慌てていると、今度は唇にやわらかいものが触れた。乱れた前髪の隙間から見上げると、照れくさそうな、むくれたような表情の瑛くんと目が合った。ぼそり、と瑛くんが言う。
「……これは人の告白にケチつけた、バツ」
――キスが? という台詞は流石に飲み込んだ。今は前髪に隠れてしまった、唇が触れた額を指先で撫でる。……これはバツではないなあ、と熱を持った額と頬を持てあましたまま、思った。
○
「物持ちが良いんだね」と棚に置いたガラスの人魚像を見つめながらあかりは言った。大事にしてくれてて嬉しい、とも。当たり前だ、と思う。大切なものだったんだから。ずっと、多分、あかりが思うよりもずっと前から、大切なものだったのだから。
あかりの端的な一言に返すには過剰すぎる気持ちを抑えて、同じように一言だけ返した。
「俺は物持ちが良いんだ」
それでもまだどこか気恥ずかしくて、髪の毛をぐしゃぐしゃにするように撫でてやった。きゃー、と甲高い悲鳴が上がる。これじゃあ子どもみたいだ。どっちがって、勿論まあ、俺が。
ガラスの人魚の置物は、高校3年の夏、俺の誕生日にあかりがプレゼントしてくれたものだ。ガラスに、人魚。好きなものの組合せな上、特に人魚は特別だった。子供の頃、大切だったもの。信じていたもの。手放したくはなかったけど、手放さなきゃいけなかったものの象徴。
あの頃、高校生だった頃は早く大人になりたくて躍起になっていた。子どもっぽいものをいつまでも信じている訳にはいかない。でも、手放さなきゃと思う反面、まだ手を放したくないとも思っていた。
早く手を放さなきゃ、そう思っていた。でも焦らなくても良いんだって教えられたのかも知れない。大切なものは、大切なもののまま、大事にしても構わないんだって。大人だから、子どもだから、もう手を放した方が良いから、そういうことじゃなくて、自分にとって大切だから。手を放さない理由なんて、それだけで充分なんだって分かったから。
いたずらにむき出しにさせたあかりのおでこ越しにガラスの人魚像が見えた。――君は、人魚なの? 子供の頃の思い出がよみがえる。大切な思い出だ。幼い約束も、あの頃ずっと信じていた。
あの時の人魚だから、それだけで目の前のこいつを好きになった訳じゃないと思う。だけど大切な思い出のひとつで、やっぱり忘れたくないし、忘れがたい。――ああそうだよ、俺は物持ちが良い。あの頃からずっと、一人の女の子のことが大切で、大好きだ。
真っ赤になって目を逸らして、人の告白をいまいち真剣に受け止め切れていないっぽいあかりに教え込むように、額にキスを落とした。
2013.07.19
(瑛くんお誕生日おめでとうございます)
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