はじめてのおつかい



*6/16のラヴコレクション2013 in summerで配布したコピー本のおはなしです
*ねつ造未来の佐伯家ネタで、佐伯くんとデイジー の息子が登場します
*息子さんのお名前は「凪」くんです
*名付け親はぽんさんです(ありがとうございます)





冷蔵庫を開けた母さんが「あっ」と声を上げた。僕はテーブルを拭く手を止めて訊いた。

「どうしたの?」
「卵が足りないの」と母さんは眉を八の字の形にして言った。

時計の長い針と短い針がどちらもぴったり上を向いたときがお店のランチタイムだ。ランチタイムは大体午後のおやつの時間くらいまでだから、それまでにおひるごはんを済ませてしまう。
僕はおひるごはんを作る母さんの手伝いをしていた。父さんはお店の常連さん用にコーヒー豆の配達に行っている。父さんが戻ってくるまでにおひるごはんを作っておかないと、間に合わなくなってしまう。
今日のメニューはオムライスの予定だ。卵が足りないと、もちろんオムライスを作ることはできない。

「僕、買ってくるよ」

補助台代わりにしていた椅子から飛び降りてエプロンを外す。南の国の海のように真っ青な色をしたエプロンは母さんが僕用にと作ってくれたものだ。

「買い物に行ってきてくれるの?」
「うん」
「ひとりで平気? 大丈夫?」

しゃがみ込んで僕と視線を合わせて母さんは訊いた。両方の眉がやっぱり八の字の形に下がっている。心配そうだ。母さんの心配を取り払うように言った。

「大丈夫。僕、ひとりで行けるよ」

これまでも母さんの買い物の手伝いをしていたから、お店まで行く道だって分かる。卵なら僕ひとりでも買ってこれると思う。
しばらくのあいだ、母さんは僕の顔をじっと見つめていた。
と、ふっと眉の力を抜いて、軽く微笑むと、僕の顔を覗き込むように見つめて言った。

「それじゃあ、卵を買ってきてくれる?」
「うん、行ってくるよ」

僕の返事を聞いて母さんはゆっくりと立ち上がった。奥から取ってきた小さながま口のお財布とショッピングバッグを僕に手渡す。

「卵だけお願い……って言いたいけど、実は牛乳も足りないの」
「買ってくるよ」
「ありがとう。いつも買う牛乳の種類は分かる?」
「加工されてない、なるべく新鮮な牛乳だよね。分かるよ」

母さんがにこりと微笑む。

「凪は何でも分かるんだね」
「もう子供じゃないからね」

僕が言うと、母さんは目を丸くしてみせた。『あらあら』と言うように眉も軽く上がる。
母さんは驚いているようだけど、僕は本当のことを言ったつもりだ。僕はもう母さんのエプロンやスカートの影に隠れているような子供じゃない。大きくなったし、ひとりでできることも増えた。
渡されたショッピングバッグにがま口のお財布を入れて、母さんに「いってきます」を言った。出口へ向かう僕に母さんは慌てたように声をかけた。

「待って、凪! 今お店までの地図を書くから」
「道くらい覚えてるから、いらないよ!」
「凪!」

母さんに呼ばれたけど、そのままお店を飛び出した。かららん、とドアに取り付けられたベルの軽やかな音がした。
外に出ると太陽が高い位置にあって、とても眩しかった。お昼が近いのだと思う。その前に卵を買って戻らないと、おひるごはんの準備も出来ないし、ランチタイムが始まってしまう。早く買い物をしてこよう。





いってきますと言って凪はお店を飛び出した。浜へ続く下の道じゃなく、道路へ繋がる上の道を駆けていく凪の背中を見送りながら、心配と不安が膨らんでいく。――大丈夫かな。ひとりで買い物に行かせてしまって良かったのかな。心配で堪らない。

「……凪、大丈夫かな……」
「どうした?」
「瑛くん」

振り返ると、ちょうど配達から戻ってきたらしい瑛くんがいた。カウンターに荷物を置いて、お店の入り口に立ち尽くしているわたしの隣に立つ。わたしの顔色を見て、瑛くんの顔に緊張が走った。

「……何かあったのか?」
「凪が……」
「凪が?」
「ひとりで買い物に……」
「買い物?」

瑛くんの声が裏返るように跳ね上がった。

「たったひとりで買い物に行かせちゃった……瑛くんどうしよう、凪、大丈夫かな……」

――大丈夫かな。あんなに急いで駆けて、転んだりしたら。ちゃんと信号のある場所で道路を渡れるかな。知らない人について行ったりしないかな。道で迷子になって、心細くなって泣いていたり、しないかな……。どんどん不安になっていく。

「大丈夫だから」

瑛くんの力強い手がわたしの肩をつかんで支えてくれた。元気づけるように、言い聞かせるように同じ言葉を口にする。

「……大丈夫だから」

大丈夫と繰り返す瑛くんの目も、お店の外、凪が走って行った道路へと続く上の道を見つめていた。





――大丈夫、ちゃんとひとりで買い物くらい出来るよ。
出てくるとき心配そうだった母さんに答えるように頭の中で繰り返す。大丈夫、ひとりで買い物くらい出来る。僕だってもう随分大きくなったし、母さんと歩いたよく知っている道だから、道に迷う不安もない。走ってつまづいて転んだりもしない。もちろん、知らない人になんかついて行ったりしない。――大丈夫。買い物なら、僕ひとりでも出来るから。だから、あまり心配したりしないで。
石造りの階段を上って道路に出た。海沿いの道は車の通りも多いし、歩道の幅も狭いから、ちゃんと信号と横断歩道のある場所で道路を渡らないと危ない。
信号が青になるのを待ちながら、頭の中でお店までの道順を確認する。行き先は商店街だ。卵と牛乳ならコンビニでも買うことが出来るけど、僕が買いたい牛乳はコンビニには売っていないから、商店街まで行く必要がある。
商店街へ行くには、まず駅前広場へ向かって……と順番に行き先を確認していく。……うん、道順は大丈夫だと思う。いつも母さんの買い物に付き合っていたから、分かる。
信号が青に変わった。左右を見て、車が来ないことを確認して横断歩道を渡ろうと足を踏み出した。

「―――――」
「?」

渡ろうとしたとき、背中の方で声がした気がする。振り返って辺りを見回してみたけど、僕と同じく信号待ちをしていた犬の散歩をしているおばさんの姿ぐらいしか見当たらない。けど、おかしいな。聞こえた声はおばあさんのものじゃなく、男の人が呟くような声だったからだ。でも、辺りには男の人の姿なんて見当たらない。

「……ま、いいか」

気持ちを切り替えて、横断歩道を渡る。うかうかしていると信号が赤になってしまう。早く卵と牛乳を買って帰らないと。

「卵と牛乳、卵と牛乳……」

二つともコンビニで買うことが出来るものだけど、スーパーへ。いつも買う牛乳はスーパーじゃないと売っていないからだ。いつも母さんと一緒に歩いて買い物に行っていたから迷わなかった。
入り口で手に取った買い物カゴに牛乳と卵を入れてレジへ。母さんから渡されたがま口のお財布からお金を出してお会計も済ませた。ショッピングバッグに牛乳と卵を入れてスーパーを出る。卵を割らないように気を付けないといけない。
あとは帰るだけ。時計がないから時間が判らないけど、そんなに経っていないはず。どこかに時計がないかな。商店街にはお店がたくさん並んでいて、お店の中には時計があるかもしれない。そうやって通りのお店を窓越しに覗いて見てみようとしていた時だった。

「?」

お店のガラス窓は鏡みたいに人の姿を映し出す。お店を覗こうとする僕の後ろ、通りの反対側に何だかこそこそとした様子の男の人の姿が見えた。振り返ると怪しい人影は電信柱の影に隠れてしまった。

「…………」

――怪しい人に気を付けて。
その瞬間、母さんの声が頭の中で自動再生された。怪しい人がいる!
心持ち駆け足で歩き出した。相手は大人。本気で追いかけられたらすぐに追いつかれそうだ。……追いかけて、来てるかな? 歩きながら後ろを振り返ろうとしたら、何かにぶつかった。

「わっ!」
「うわっ!」

道を歩いている人とぶつかってしまったみたいだ。

「ご、ごめんなさい」

謝って見上げた人は黒ずくめの格好だった。真っ黒なレンズのサングラスに黒いズボン、黒い上着、そして髪の毛は針ネズミみたいにツンツンしている……その人は僕を見下ろすと「おぅ、気ぃつけろよ」と言った。髪の毛みたいにツンツンとした言い方と声…………ここにも怪しい人だ! 怪しいというか、こわい人に見えた。――怪しい人に気を付けて。もう一度、母さんの声が頭の中で響いた。

「ごめんなさい!」

もう一度大きな声で謝って、その人の脇をくぐって一目散で逃げるつもりで走り出した。

「あっ、おい!」

男の人の声が背中に響く。大きな声にびくりとして足がもつれそうになった。

「走ると危ねーぞ!」

その台詞が背中に届いた瞬間、つまづいて体が一瞬宙に浮いた。『転ぶ!』というのと、それから『卵』のことが頭を占めて、それから、地面に倒れてしまった。
足音がして黒い革靴が視界に入る。

「大丈夫か、ボーズ」

さっきのこわい人の声だ。顔を上げようとしたら、こちらに向かって走ってくるような慌ただしい足音がした。

「……おい!」

また男の人の声だ。だけど、この声――、

「あんた何を……って……」

顔を上げる。
――父さんだ。
どうしてここにいるんだろう? コーヒー豆の配達に行っていたはずなのに。
父さんは驚いた顔をして黒ずくめの人と向き合っている。

「おまえ……」
「よう」

黒ずくめの男の人は黒いサングラスを外して、にっと笑った。その笑顔には見覚えがある。

「――針谷」

黒ずくめの……ううん、針谷おじさんはムッとした様子で「ハリーって呼べって言ってるだろ」と言った。

「針谷おじさん?」
「だからハリーって……ちょっと待てまだおじさんって年じゃねーぞ!」

声を上げる針谷おじさ……針谷さんに父さんは呆れたように返した。

「ってか、何でそんなもんかけてんだ」
「まー最近ちょっとな」

そう言って針谷さんは黒いサングラスをかけ直した。かけてない方が良いと思うんだけどなあ……。
針谷さんはしゃがみ込むと僕に視線を合わせて笑いかけてきた。

「凪おまえ、しばらく見ねーうちにでっかくなったなあ」

それから頭をぐしゃぐしゃと撫でられた。

「や、やめてよ!」
「しっかし派手に転んだなあ。怪我してねーか。うわ、膝すりむいてんな。帰ったら消毒してもらえよ?」
「これくらい平気だよ」
「お、一丁前言うようになったな」

針谷さんは腰を上げて「強がりなとこが誰かさんそっくりだ」と父さんの方を見て言う。

「ウルサイ」

父さんはしかめ面をして言い返している。

「とと、今ちょっと急いでんだ。また今度店に遊びに行くからよ」
「『遊びに』が余計だ」
「またな、凪」

また頭を撫でられる。少し歩いて、思い出したように振り返って「ちゃんと消毒してもらえよ!」と大きな声で言われた。

「だから、平気だってば!」
「強がんじゃねーよ!」

そう言い返して針谷さんは踵を返した。それにしても針谷さんは声が大きい。
反対に父さんの声は余り大きくない。ぼそり、と父さんが呟くように言った。

「……俺たちも帰るぞ」
「……うん」

そのまま歩き出そうとしたら、父さんが「待て」と言ってしゃがみ込んだ。

「ほら」

背中越し振り返った父さんと目が合う。これはもしかして、おんぶ。

「いいよ、平気だよ」
「平気じゃないだろ。ほら」

おんぶなんて、小さな子どもみたいで恥ずかしい。いくら膝をすりむいていても絶対に嫌だ。

「……子供みたいで、ヤダよ」
「子供だろ、まだ。甘えとけ」

こういうときの父さんはちょっと頑固だ。釈然としなかったけど、おんぶしてもらうことにした。本当に小さかった頃にはよくしてもらっていたけど、何だか久しぶりで、やっぱり気恥ずかしい。
おんぶされていると父さんの顔が見えない。父さんからも、僕の顔は見えないはずだ。

「……父さん」
「どうした?」

おんぶされるときにショッピングバッグも一緒に父さんに持たれてしまった。牛乳と卵。母さんに頼まれたふたつのもの。かさかさとナイロンの生地がすれる音がして、袋の中にふたつとも入っている音がする。

「……僕、卵は守ったよ」
「転んだけどな」
「うん」
「でも、泣かなかったな」
「…………」
「えらいえらい」

父さんの顔は見えない。どんな表情をしているのか見えないけど、声の調子は優しかった。『えらいえらい』の一言に目と鼻の奥がつん、と熱くなった。それまでガマンしていたのに。

「男の子だもんな。人前じゃ泣けないよな。……父さんもそうだったよ」
「……父さんも?」
「ああ、誰にも見られないように浜で隠れて泣いてた」

父さんの声は笑っている。父さんにも、そういうことがあったんだ……。
父さんは一度、海の方に目を向けると、ぽつり、と小さな声で呟いた。

「……まあ、じいちゃん……凪のひいじいちゃんにはばれてたみたいだったけどな」
「え?」

父さんの呟き声は海風にまぎれてよく聞こえなかった。
一転して明るい調子で父さんは言う。

「……大人は何でもお見通しって話、だな。でも、バレバレでも男の子はやっぱり人前じゃ泣けないし、泣きたくないよな」
「…………」

――父さんの言うとおりだった。僕は泣かなかった。僕が泣かなかったのは、男の子だから。男の子だから、人前でわんわん泣く姿を見せたくなかった。
それに僕はもう子供じゃないから。しっかりしないと。しっかりして、母さんを安心させたい。
そう思っていたから、だから泣かないようにしないといけない、そう思っていた。

「…………っ」

父さんは背中を向いてるから、泣いている姿は見えないはず。これは男と男の秘密で、父さんはきっと秘密にしてくれると思う。

「母さんには内緒、な」

お見通しのように父さんが言う。母さんに言えない秘密がひとつ、できた。





父さんと一緒に家に帰ると、母さんは僕と父さんの姿を見て安心したように笑顔になって、それからすぐ僕の膝小僧に気がついて真っ青になった。

「ごめんね。わたしがおつかいを頼んだばっかりに……」
「これくらい平気だよ、母さん」
「そんなこと……」
「凪の言う通りだよ」

戸棚から薬箱を取り出しながら父さんが言った。

「子供は怪我をしながら大きくなるものなんだ。少しの怪我くらい平気だよ」
「もう、瑛くんはすぐそうやってスパルタみたいなこと言うんだから!」
「こんなの全然スパルタじゃないだろ。あ、あと、子どもの前でその呼び方はやめろよ!」

傷口を消毒液で洗われる。水で洗うだけで良いのに、と言ったら「水だとばい菌が傷口の奥に流れて却って危ないんだ」と父さんに言われてしまった。
消毒液は覿面にしみた。だけどやっぱり泣かなかった。
僕はもう子どもじゃない。だって、これからお兄ちゃんになるのだから。だからしっかりして、母さんを助けて、これから生まれてくる赤ちゃんを守るんだ。
父さんと母さん。それから、僕。おひるごはんの準備を手伝いながら、来月にはもうひとり増えているはずの家族のことを改めて思った。
来月、僕はお兄ちゃんになる。
弟ができるのか、妹ができるのか、それはまだ判らないけど、早く会いたいな、と思う。






2013.06.16
ということ(!?)で佐伯家の息子くんに弟or妹ができるそうです^▽^
またいつか新しい家族が増えたこの家族のお話を書いてみたいなと思います

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