甘く苦い




(*決してシリアル……シリアスではありませんのでご注意ください)




声が聞こえたのは偶然だ。故意じゃない。

「……あっ」

冬だというのに窓からは眩しいくらいの陽が射していて、いわゆる小春日和の、穏やかな昼休みのことだった。まるで日課のように繰り返される、取り巻きの女子たちの、『瑛クーーン、一緒にごはん食べようよ〜』『えっ! ズルーイ! 今日はウチらの番でしょ!?』『何言ってんの! こういうのは早いモン勝ち!』『何よ!』『何よ!』以下喧々諤々といったやり取りから幸運にも抜け出した佐伯瑛は、ひと気のない廊下を歩きながら、校舎に似つかわしくない声を耳にして、思わず足を止めた。

(……何だ、今の声)

やけに艶めいた声だった。昼休みに聞くような声ではない。というか、そもそも学校で耳にする類の声じゃない。艶っぽくて、甘ったるくて、舌っ足らずで、そう、まるで……、

「……ぁん」

喘ぎ声みたいな。

(…………ウソだろ!?)

把握した途端、足がその場に縫い付けられてしまったかのように動かなくなった。健全な男子高校生らしく“声”に想像力をかき立てられて、ひどく心がざわめく。

(今の声……)

しかし声の出所に目と耳が吸い寄せられてしまうのは、何も浮ついた理由だけのせいじゃない。
信じられないものを目にするような思いで彼は“化学準備室”と黒字で記された扉を見つめた。

(あいつに似てた…………)

聞き覚えのある声だった。彼の知っている少女のものによく似ていた。しかし彼は少女のあんな声を聞いたことがなかった。出来れば勘違いであって欲しい。半ば祈るような心地で彼は扉を見つめた。あまりのことに戸口に耳を寄せることも出来ない。
次いで聞こえてきたくぐもったような声に、思わず肩が跳ねた。

「……っは」
「海野さん……」

少女の声に被さるように聞こえてきた声は男のものだった。それも聞き覚えがある。吐息のように短い声とは違って、男の声は明瞭に聞こえたから、見当に外れはないはずだ。――担任の声だ。恐ろしいことに。そして担任が少女の名前を呼んだため、佐伯の心配は現実のものとなった。目の前が暗くなる彼を余所に、化学準備室からはやけに熱っぽくひそやかな会話が聞こえてくる。

「……せんせぇ」
「海野さん、ダメです。我慢して」
「がまん、できません……あつくて……」
「いけません! それを取ったら……!」
「せんせぇ……わたし、もう……」
「ダメです、海野さん……!」

「…………ちょっと待てよ!!」

思わず声を上げて扉を開けた彼が目にしたものは、想像の通り、彼のクラスメイトでありバイト仲間でもあり、彼の秘密を唯一知っている少女と担任教師の姿だった。
想像と異なっていたのは、二人の着衣に別段乱れは見られず、身体の接触もなく、彼が頭に思い描いてしまったような、不謹慎ないし親密さ、あるいは『おまえら学校で何してんだ!』と思わず突っ込まずにいられなくなるような様子は見られなかったことだ。

「ややっ、佐伯くん」
「……瑛、くん?」

それより目を奪われたのは少女の、海野あかりの姿だった。
机の上で何かの実験か、はたまた薬の調合でもしてるのか、ビーカーの中身を掻きまわす若王子に背中を向ける格好で椅子に座り、戸口に呆然と立つ佐伯と、正面とから向き合う形で彼を見上げようとする彼女の目元は何故かネクタイで覆われており、彼女の白く細い指先が目隠しを外そうと、もどかしげにもがいていた。
見覚えのある深緑色のネクタイから片目だけ覗く少女の瞳は涙に濡れて艶やかな上、彼の見間違いでなければ、頬もひどく紅潮している。赤みの増した頬に、濡れて光沢を放つ黒い瞳、そして、半ば開きかけた珊瑚色の可愛らしい唇からは苦しげで熱い吐息が洩れているような――――

(――やっぱりこれはアウトだろ!)

どう好意的に解釈しようとしても、この場所で何かよからぬことが行われていたとしか思えない。彼は部屋に入り込みあかりに声をかけた。

「あかり、大丈夫か!?」
「瑛くん……」

目元を覆っていたらしいネクタイを外してやると、あかりはくたりと力が抜けたように彼の胸元に倒れこんできた。肩を掴んで支えると、常よりも潤んで余計に大きく見える瞳が何かを訴えるように見上げてくる。その目だけで、何もかも把握出来てしまった気がした。思わず「あっ、佐伯くん、いけません……」と慌てたように言う担任に強い視線を向けていた。
――“いけない”? そんなのこっちの台詞だ。

「若王子先生……こいつに何を……」
「それは説明しますから、佐伯くん、早く海野さんから離れた方が良い」

――この期に及んで何を言ってるんだ。カッと目の前が赤くなる。決定的な現場をおさえられたにも関わらず、まだ教師然として諭す担任に向けて彼は口を開いた。

「こっちの質問に答え、」
「てる、くん」

熱に浮かされたような、やけに甘ったるい声が耳を打った。次いで、花にも似た甘い匂いが鼻孔をくすぐる。そして、触感。首筋に細くてしなやかなものが回された。触れてきたものに目を向けようとすると、ふわふわと柔らかそうなコーヒーブラウンの髪が視界いっぱいに広がっている。認識は、奇妙に強調された五感に大幅な遅れを取って彼を襲った。――あかりに抱きつかれている。首筋に腕を回されて、ぴたりと寄り添われて、頬と頬が今にもくっついてしまいそうだ。
佐伯はひどくうろたえた。

「ちょ、あかり、おまえ何して……!」
「瑛くぅん……」
「こ、ここじゃマズイだろ……じゃなくて! は、早く離れろよ……!」
「やぁん……」
「(何その声!?)」
「……だから早く離れた方が良いと言ったのに……」

机の向こう側で彼らの担任は困ったように眉を下げて言った。

「ちょ、若王子先生! 見てないで止めて下さいよ! どうしちゃったんですか、こいつ!」

身をすり寄せるようにして抱きついてくる、常と様子が変わってしまったクラスメイトの少女を必死に遠ざけようとしながら抗議の声を上げる佐伯に、若王子は「実は……」と事情を告げた。

「…………惚れ薬?」
「ええ、まあ」

一通り事の次第を聞いた佐伯は半ば呆れながら聞き返した。否、正真正銘呆れていた。ただ、話の展開が余りにも現実離れしていて、理解が追いつかない。
若王子の説明は、こうだ。その日、日直だった彼女は前の授業で集めたクラスメイトたちのノートを担任教師の元に届けた。ちょうど昼休みのことで、自分用にと入れたコーヒー(ビーカー入りの)をご馳走しながら、話が弾んだ。化学準備室には目ぼしいお茶菓子もなく、あり合わせの“頭がすっきりする”キャンディを「よかったら」と差し出した。「ありがとうございます」とキャンディを口に放り込んだ生徒の屈託のない笑顔を微笑ましい気持ちで見届けた担任教師は、教え子に与えたキャンディが、頭脳キャンディではなかったことに遅ればせながら気がついて顔を青ざめさせた。

「……で、コイツは何で目隠しをしてたんですか?」

廊下であらぬ想像を掻き立てる声を聞いて部屋に駆けこんだ時、あかりはネクタイで目隠しをされていた。「それはですね……」と若王子が弁解するように言う。

「この薬を服用すると、目にした人に恋をしてしまうからですよ」
「こ……!」
「効果を発揮させないよう、薬の効き目が切れるまで、海野さんには目隠しをしたままでいてもらおうと思ったんですが……」

ちらり、と若王子があかりに目を向ける。あかりは佐伯の首筋にぶらさがったままだ。先ほどから決して離れようとしない。

「……効果、発揮しちゃいましたね」
「しちゃいましたね、じゃないですよ! 解毒剤とか、ないんですか?」
「良い質問です」

目を輝かせ若王子は人差し指を立てて見せる。

「この手の薬には通常解毒剤が付きものです。使い方によっては人に害を成すような類の薬の場合には特に、ね。仮に悪用されたとき、解毒剤がなければ大変困ったことになってしまう」

話が何やら不穏な方へ向かっている。体の片側に密着する柔らかな感触から努めて意識を遠ざけながら質問を被せた。

「で、解毒剤は?」
「ありません」

担任は事もなげに答えた。

「は!?」
「うっかり作るのを忘れてました。失敗、失敗、です」

こつん、と自らの頭を拳で軽く打つ仕草をしながら言う担任の姿に、佐伯のこめかみがずきずきと痛む。
若王子の手の中におさまっている何か琥珀色の液体が入っているビーカーに視線を向ける。佐伯が始め部屋に踏み込んだ時、若王子が手にしていたビーカーだ。てっきり、それが解毒剤か何かなのだと思っていた。
佐伯の視線に気がついた若王子は、「ああ、これはコーヒーです」とビーカーを掲げ持ってみせる。

「佐伯くんも、いかがですか?」
「遠慮します」

即答した。あかりの、惨状としか言いようのない有様と、さっきの若王子の話を聞いてからではとても口にする気にならない。そもそも彼は実験器具のバーナーで抽出されたに違いない代物をコーヒーとは認めたくない。

「今から解毒剤を作るとか……」
「完成させるより、薬の効き目が切れるのが先でしょうねぇ」
「そうだとしても、今後のために作るとか……」
「それはもう、必要ないかと」
「何でですか」
「彼女が口にした分で最後だったんです。最初で最後の一粒でした」
「……は?」
「本当に偶然に出来た薬だったんですよ」

白々しくも、そんなことを言ってのける担任にめまいを覚えた。――偶然なんかで惚れ薬なんてふざけた代物が出来て堪るか。しかし現実に嘘みたいな代物がしっかりと効果を発揮してしまっていて、彼のクラスメイトの少女はさっきから彼に抱きついて離れようとしない。

「大丈夫、直に薬の効き目も切れます」
「だからってこのままで良い訳ないじゃないですか! 大体、そんな物騒な代物を生徒の目の前に置いとくとか、不用心にも程がありますよ!」
「すみません……」
「いや、すみませんじゃ済まないだろ普通…………あかり、大体おまえも不用心だ。怪しいものは口にするなって、あれだけ言ってたのに……」
「瑛くん、ごめんね……」
「あ、や、耳元で喋るなよ……」

耳をくすぐる甘い声と、熱い吐息が堪らない。
うんうん、と感心したように頷きながら担任が言う。

「佐伯くんはまるでお父さんみたいですねぇ……“お父さん”みたいな佐伯くんに、先生、お願いがあります」
「? 何ですか?」

ちなみに嫌な予感しかしない。

「実は先生、教頭先生に呼ばれているんです。少しの間だけ席を外しますが、僕が戻ってくるまで、佐伯くんに海野さんのことをお願いしたいんです」
「……は?」
「大丈夫! 昼休みが終わるまでには戻ってきますから!」
「いや、ちょ、待っ……」

お願いしますね〜と白衣の教師は化学準備室の扉を閉めた。頭が追いつかない。つまり……。

「瑛くぅん……」

あかりと二人きりで部屋に残された。

(……ちょっと待てよ!!)

首筋に腕を回して体を密着させるようにして寄り添うあかりは、惚れ薬のせいで彼にすがりついて離れようとしないらしい。つまり、このあかりは薬の効果で彼に“恋”をしている。先ほど受けた説明が彼の頭の中で強く意識されて、途端に心臓が跳ねた。体温が上がる。薬のせいか、やけに熱を帯びたあかりの体の熱さを意識出来なくなるほどに、あるいは、それ以上に。

「あかり、ちょっと、離れろって……」
「……やだ」
「やだじゃないよ。ま、まずいだろ……こんなの……」
「どうして?」
「どうしても、なにも……学校で、こんなこと、まずいだろ……」
「学校だから、ダメなの?」
「当たり前だろ」
「学校じゃなきゃ、いいの?」

潤んでいつもより光沢を帯びた双眸が彼の瞳を覗き込むように見つめていた。睫毛の先が頬に触れてしまいそうなほどに近い。
言葉よりも雄弁に意思を伝えるような黒い瞳に惹きこまれそうになりながら、かろうじて、佐伯は首を横に振った。

「……ダメに、決まってるだろ」
「どうして?」
「どうしてって、そんなの……」

でも、どうしてだろう。何故ダメなのだろう。佐伯自身、自身を納得させるような理由を見つけられないでいる。さっきから触れたくて堪らない。出来ることなら、首筋にすがりつくあかりの小柄な体に腕を回して思い切り抱きしめてしまいたい。胸におさめるだけではなく、もっとそれ以上の、口にするのもはばかられるようなことだって、してしまいたい。きっと今のあかりなら受け入れてくれる。彼の中で長らくくすぶっていた欲求を受け入れて、返してくれるだろう。
悲しそうな、心細げな声が佐伯の耳を打つ。

「…………瑛くんは、わたしのことが嫌いなの?」

俄かに我にかえって、佐伯は彼を見上げる少女の顔を見つめ返した。相変わらず瞳には熱がこもったまま、けれど、悲しそうな色をたたえていた。思わず唾を飲み込んだ。抱きしめたくて堪らない。嫌いだなんて、そんなことはないと言って安心させてやりたい。
体の両脇に下ろしていた腕を持ち上げる。華奢な両肩を両手に掴む。そのまま引き寄せて胸におさめるのではなく、腕に力を込めて、断腸の思いで少女の体を遠ざけた。

「瑛くん……」

佐伯のその仕草が答えだと言わんばかりに、少女の声が悲しそうに沈んだ。その声に被せるように彼は口を開いた。

「……そうじゃない」
「え?」
「そうじゃない、から、ダメなんだ」

少女の肩を掴んで腕を突っ張ったまま、佐伯はあかりの目を見つめた。嫌いな訳がない。今だって気を緩めると抱きしめてしまいそうなほど誘惑が強い。
でも、しない。今のあかりのことは抱きしめられない。
何故って、今のあかりは薬のせいでこんなことになっているからだ。これはあかりの本当の気持ちを反映したものじゃないからだ。
嫌いじゃないからこそ、今のあかりに甘えるようなことは出来ない。嫌いじゃないし、嫌いになってほしくないから、あかりの本心ではないことは決してしたくなかった。

「瑛くん……」

あかりは驚いたように目を瞬かせた。無防備な顔をさらす少女に、ちゃんと気持ちを伝えたい衝動に駆られて口を開こうとしたところで、扉が開いた。能天気な、とさえ形容したくなるほどに明るい声が彼の耳に飛び込んできた。

「佐伯くん、ありがとうございました、助かりました〜」
「…………」
「……………やや」
「…………」
「すみません。お取り込み中のところ、お邪魔しました」

急に扉を開け、中の二人のただならぬ様子を視界におさめた担任教師は、目を丸くして数度瞬きをすると、彼らをとがめるでもなく説教するでもなく、踵を返そうとした。

「違うでしょ! 出ていかないで下さい!」
「ややっ、しかし、若いお二人のお邪魔をしては……」
「あんた教師でしょうが! ここは遠慮なく止めて下さい!」
「そうですか? では……『コラッ! 佐伯くん、海野さん、いけませんよ!』」

――どうです、という担任の得意げな表情に彼は心底脱力した。

「…………それより、あとはこいつのこと、頼みます……俺はもう疲れました……」

腕を突っ張ったまま、手の中のあかりを担任の方へ押し出す。抱きついていたときは抵抗ばかりして彼の言うことを少しも聞かなかったのに、このときは、すんなりと押しだされた。そのことに少し違和感を覚えながら、先程の説得が効いたのかもしれない、と彼は思った。
担任は腕時計で時間を確認している。

「その必要はないと思います」
「?」
「もう海野さんの薬の効き目は切れてるはずです」
「えっ?」
「海野さん、すみません、ちょっと目を見せて下さい……あれ? 瞳孔がまだ開いてますね。おかしいな……薬の効果は切れているはずなのに……」

首を傾げる担任の向かい側で、とうに薬の効き目が切れているらしい少女は顔を赤くさせて俯いていた。……嫌な予感がする。それはもう、ものすごく。

「瑛くん……」

頬を染めたままの少女が顔を彼の方へ向ける。佐伯の肩が思わず跳ねる。
――いつからだ? 一体いつから、薬の効果が切れていた?

「……あのね、さっきの台詞の意味って……」

少女の言葉に、彼の顔もまた負けずと赤く染まった。聞かれていた。聞かれたくない言葉を、ちゃんと聞かれていた。

――そうじゃないから、しない。

もとい、

――嫌いじゃないから、しない。

それはつまり…………。

「…………違う! 今のは違うからな!」

必死だったとはいえ、自分が口にしてしまった台詞から導き出されてしまう、あまりにも恥ずかしい感情を面と向かって認めることが出来ずに彼は力いっぱい否定した。

「違う、の?」

少女の瞳に悲しげな色がよぎる。

「……いや、それは……それも、違……」
「違うの?」

途端に少女の声と瞳が輝きを帯びる。

「いや、その…………」

墓穴の掘り過ぎで逃げ場がない。顔を赤くしながら冷や汗をかく、という器用な真似をしてのける佐伯の耳に、担任の「青春ですねぇ」というやけに暢気過ぎる声が届く。そもそも誰のせいでこんなことになっているんだ、と思わずにいられない。――いや、分かってる。声を聞いて、足を止めて部屋に入り込んだのが、運のつきだったのだろう、おそらく。
声が聞こえたのは偶然だ。故意じゃない。そうして、先程までの少女の様子も薬の力であって、恋ではない。けれど彼の場合は違うのだ。そのことを自覚させられて、彼は苦い思いでため息をついた。




2012.12.08
(*ぎゃ、ギャグとして受け取って頂けると幸い!)(今更もいいとこ)

[back]
[works]
「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -