あなたとわたしがゲキテキな変化を遂げる 冬 #12


珊瑚礁を出て佐伯くんと別れてから、家に向かった。見慣れた住宅街を歩きながら、ポケット越しにもらったテレフォンカードとマッチ箱があることを確かめた。傍にはいないけど、これだけで、繋がりが出来たようで嬉しかった。相変わらず、心もとない状況ではあったのだけど。

「さて……」

――どうしますか。

歩きながら、これからのことを考える。家に戻るにしても、また“空き家”の看板を見せつけられるのは堪らない。もらったカードで家に電話をかけてみることも考えた。考えて、『おかけになった電話は現在使われておりません――』そんなお馴染みの声が受話器越しに聞こえてしまう予感に身震いした。そうなってしまったら、怖くて堪らない。絶対的な証拠を鼻先に突きつけられるようなものだし、それに……繋がらない電話、というのは、とても寂しいし、辛い。







――やっぱり。

角を曲がった先、見慣れていたはずの家に昨日と同じ看板を見つけてしまった。

“空き家物件”

明るい朝の光の下で、書かれた文字がはっきりと分かるのが、恨めしい。
佐伯くんの言うとおり、わたしは余程ボンヤリなのかもしれない。自分の家の場所さえ、忘れてしまった、とか。確かに子どもの頃は、よく道に迷う子どもだったらしいけど。けれどもうあの頃みたいな迷子の子どもじゃあないのだし。そう思いかけて、考え直す。この状況は迷子以外の何者でもない。

記憶の中では一昨日まで、この家に住んでいたはずなのに、看板の文字が記憶を否定してる。門に手をかけて、ボンヤリと家を見ていた。
ふと、背中に誰かの視線を感じた。振り返ってみたら、箒を持ったおばあさんが不思議そうにわたしを見ていた。つい、いつもの習慣で「おはようございます」と言ってしまった。隣りの家のおばあさん。おばあさんはまだ少し不思議そうな様子だったけど、「おはよう」と返してくれた。

「この家は」と目の前の家を指さしながら訊いてみた。

「ずっと空き家なんですか?」

わたしの問いにおばあさんが「そうだねぇ」と頷きを返す。

「もう随分長いこと、空き家だねぇ」

おばあさんは他にも説明してくれた。新しくは無いけど良い家だということ、買い手はいたけど直前にダメになってしまったこと……。

うちと同じ条件だ。新しくは無いけど、状態の良い家で、本当は先に他の買い手さんがいたはずなのに急にキャンセルになって、そのおかげでわたしたち家族がこの家に住めることになった。同じだ。けど、一つだけ、すっぽりと抜け落ちてしまっている。この家にわたしたち家族がいないことだけ……。こめかみの辺りがズキズキする。

おばあさんが、「どうかしたかい?」とわたしの顔を覗き込んだ。優しいおばあさんなんだ。面倒見がよくて、いつもニコニコしてて。会うといつも挨拶をしてくれて……。庭の木の柿がたくさん取れて、余って困るからとおすそわけしてくれた。お返しに持っていった林檎を喜んでくれた。優しいおばあさんなんだ。今もこうして、本当なら見ず知らずのわたしを心配してくれている。優しいおばあさんだって、わたしは知ってる。けど、おばあさんは今、わたしのことを知らないんだ。佐伯くんと同じだ。佐伯くんも、わたしを知らないって、昨日から何度も……。

急に視界がぼやけそうになって、慌てておばあさんにお辞儀をした。

「いろいろ教えてくれてありがとうございました。その……失礼します!」

すぐ顔を上げて、そのまま踵を返して走った。「どういたしまして?」という、おばあさんの戸惑ったような声が背中越しに聞こえた。



――大丈夫、大丈夫……と頭の中で繰り返しながら走った。家があるはずの場所は、やっぱり空き家だった。見てしまったものの衝撃に負けてしまわないように、大丈夫、と頭の中で繰り返した。そうしないと、自分を支える足場から崩れてしまいそうな気がした。

――大丈夫。

でも全然大丈夫じゃないかもしれない。
弱気になりそうになる自分を励ましながら足を前に進めた。――兎に角いまは学校へ行こう。







ちょうど校門の辺りに担任の先生の姿が見えた。――若王子先生だ。

「若王子先生!」

思わず安心して先生を呼んでしまっていた。先生は笑顔で振り返った。その笑顔を見て、安心した。張りつめていた緊張がほぐれそうになった。
けど……。

「おはようございます。ええと……」

若王子先生はいつもの朗らかな笑顔のまま、少し考え込むような顔をした。そうして躊躇いがちに、訊かれた。

「君は……もしかして新しい転校生さん、でしょうか?」

若王子先生は確かに少しとぼけたところのある先生だったけど、冗談でこんなことを言ったりはしない。続けて先生が言った「初めて会う顔ですし」という言葉に気が遠くなりそうだった。――先生、わたし三年間、先生のクラスだったんですよ。口に出して言いたかったけど、言葉にならなかった。

実を言うと、この瞬間まで、少し疑っていた。佐伯くんが忘れてしまっているだけなんじゃないかって。佐伯くんの調子がおかしいのかな、って。

でも、違う。そうじゃなかった。
わたしが一人、この場所で異質なんだ。

誰も、わたしを知らない。担任の先生も、近所のおばあさんも……佐伯くんも。
目の前がまた暗くなった。
……何だか、最近体の調子がおかしいのかも。今も、そういえば、昨日も。昨日からずっと、とても疲れて眠い気がする。昨日だって、しっかり眠ったはずなのに……。

「君?」

立っていられなくて、足元がおぼつかなくなった。心配そうな先生の声が遠い。目を閉じたまま、体が大きく傾いだ。







――目の前に広がるのは、暗い浜辺だ。もう、お馴染みの夢。お別れを言われた日は、よく晴れていて、風は強かったけど、海は荒れていなかった。それなのに、あの日のさよならと一緒になって思い出される海は、どうしてか、暗い、荒れた、寒い冬の海だ。

空は濃い藍色に染まっていて、暗い色をした重たそうな雲がどんどん風に流されていく。浜には佐伯くんの姿しか見当たらない。浜へ下りると、ずっと遠く、海を見つめていた佐伯くんがわたしに気づいて振り返った。真っ直ぐにわたしを見つめて笑顔を浮かべてくれたけど、瞬き一つの間にその笑顔は曇ってしまう。顔を背けて、悲しそうに辛そうに目を伏せてしまった。寂しそうにも、見えた。

三年目のわたしはずっと、佐伯くんがそんな顔をするのをなすすべもなく見ていた。佐伯くんが時折そんな表情を浮かべる理由が分からなかった。“さよなら”を伝えられた今なら、分かる気がする。佐伯くんは、きっとこうなることが分かっていたんだ。そうして目を伏せて、わたしに“さよなら”を伝える方法を考えていたのかもしれない。

強い風が佐伯くんとわたしの髪を容赦なくなぶっていく。背景に広がる空と海が真っ暗で、怖かった。これから伝えられるだろう台詞が、もっと、ずっと、怖かった。

これはあの日以来、何度も見る夢だ。
夢の中でさえ、わたしは本当に言いたかったことを口に出して言えないままでいる。







「…………」


……また、眠ってしまっていたのだと思う。目蓋を開けたのに、夢か現実か分からない。
ぼんやりとした視界の中で、誰かのひんやりとした手が額に触れた。小さな、優しい手だった。

「…………可哀想なデイジー」

鈴を転がすような少女の声が聞こえた。そのまま、また耐えがたいほどの眠気が押し寄せてきて、目を閉じてしまった。
誰かの「おやすみなさい」という声が、耳に残った。



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2012.02.07

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