泣きたい夜に
海風に混じって、坂道を駆ける足音が聞こえる。それから、呼ぶ声も。
「佐伯くん!」
往来で大声で呼ぶのはやめてほしい。別に、逃げやしないんだから。……いや、逃げたのか。クリスマス以降の自分を振り返って思い直す。電話で誘われても、何かと理由をつけては断っていた。実際に忙しい、ということもあったけど。
「何?」
走って来たせいか、あかりの頬も鼻先も赤く染まっていた。タータンチェックの赤いマフラーから覗く耳たぶも。風に冷やされたんだろう、手も、赤くなっている。俺のより一回りも小さな手が手提げかばんを、ぎゅ、と握った。そうして意を決したような顔をして口を開いた。
「…………よかったら、一緒に帰らない?」
断るかどうか、一瞬迷った。半分以上、断る方へ天秤が傾いた。
けど……。
「……おい」
あかりの手が、袖を掴んでいた。
「何だ、この手は」
「だって…………」
言いにくそうに口ごもっているけど、手を離す気は更々無いみたいだった。
「……佐伯くん、最近全然会ってくれないし」
喋るうちに、ぎゅ、と掴んだ袖に力を込められる。
「掴んでないと、どこか行っちゃいそうで…………」
動物的な勘だろうか。ボンヤリなのに、鋭い。
思ったけど、そういうことは口にしなかった。
袖を握った手が微かに震えていた。
ため息をひとつ、ついたら、目の前の茶色がかった髪が微かに揺れた。
「……いいよ、別に」
返事をすると、びっくりした顔で人のことをまじまじと見つめ返してきた。
「いいの!? 本当に?」
「誘っておいて、その反応はないだろ……」
「だ、だって…………」
「一緒に帰るくらいなら、大丈夫だから。それより袖、いい加減離せよ」
「あっ、ごめん!」
ぱっと手を離される。それだけで随分、心もとなくなった気がした。……別に、この小さな手が、碇代わりだなんてことも無いだろうに。
「ねえ、せっかくなら下の道、行かない?」
あかりの小っぽけな手が、指先で浜を指し示していた。
「あのなあ……」
「お願い、少しだけ!」
手のひらを合わせて拝むような仕草。ため息をもう一度ついた。
「……いいけど、少しだけな」
「うん!」
隣りを並んで歩くのは久しぶりだというのに、前みたいな空気が流れた。まるで時計を逆戻しにした気分だった。
それでも、あの夜以降、変わってしまったものが元に戻るはずもなくて。
浜へ下りて、あかりの隣りを並んで歩き出す。こうやって一緒に歩くことも、顔を見て話すのも久しぶりだった。三年間、あんなにたくさん話をしたのに。相談にも乗ったと言うのに。クリスマス以来、ほとんどを顔を合わせていなかった。
やけにしんみりとした調子であかりが「何だか久しぶりだね」と呟く。別に、こっちの考えを読んだ、とかいう訳じゃないんだろう。素朴な感想を素直に口に出しただけ、といった印象。「……そうだな」と頷きを返す。たくさん、弁明したいことはあったけど。今はまだ、口に出して説明することは出来そうになかった。
あかりが気遣わしげな顔で見上げてくる。
「ねえ、佐伯くん」
「何だよ?」
「……元気? 大丈夫?」
……何だそれって、笑い飛ばそうと思った。けど、うまく笑えそうになかった。
あかりの台詞は、妙にすとん、と胸の奥に落ちた。
歩くのをやめて、立ち止まった。
「…………分からない」
あのクリスマスの夜。
じいちゃんから、珊瑚礁の閉店を告げられた。抗議したけど、有無を言わせない口調で「今日で珊瑚礁はおしまいだ」って言われた。じいちゃんは頑固だから、そのじいちゃんがそう言うなら、そういうことだった。つまり、珊瑚礁は、おしまい。
あの夜、珊瑚礁の二階で一人きりでそのことを考えて、事実を受け止めたつもりでいた。そうやって一人で考えて、感じたのは、体の疲労とは別の疲れだった。それから、俺は何をしてたんだろう、と思った。この結末だけは避けたくて今まで頑張ってきたつもりだったのに、俺は一体何を頑張っていたんだろう。
あかりの手がいつの間にか、肩に回されていた。
「……何、してんだ」
「……友達の、ハグ、だよ」
言いたいことがたくさん、頭の中をよぎった。いくら友達でも、女は男の友達に、こういうことはしないもんだ、とか、いくら人気のない浜でも、なんてことしてくれてんだ、とか、そういう、今までなら実際に口に出していた小言が、頭の中でぐるぐるした。
でも……。
「こうすると、安心しない?」
背の低いあかりはつま先立ちをして、俺を抱きしめていた。背中に回した手のひらで、まるで宥めるように人の背中を、ぽんぽん、と何度か叩く。優しい刺激に引き込まれるように、あかりの肩に頭を乗せていた。抱き返しはしない。されるがままだけど、抵抗もしなかった。……疲れている。
「……ちょっと、肩、貸して」
「うん、いいよ」
ようやく分かった。あの日、珊瑚礁の閉店を告げられて、今までの頑張りの行き場がなくなって、疲れてしまった。少し、頑張ることに、疲れてしまった。
背中に回っていたあかりの手が片方、持ちあがって頭を撫でてきた。肩口から、あかりの声が聞こえる。
「佐伯くん、泣かないで」
「……泣いてないし」
「そう?」
「泣いてないよ。男はそう簡単には泣かないものなんだ」
そうだとしても、こうやって慰められている時点で、もう、全然格好はついていなかった。
あかりの穏やかな声が耳を打つ。
「じゃあ、泣いていいよ」
「どっちだよ」
「どっちでも」
少しだけ、顔を寄せてあかりが言った。
「佐伯くんの好きなようにして、いいよ」
別に泣きたい訳じゃない。泣こうとも思わない。人前でも、一人でも。だって、もう泣きべそをかいていた子どもの頃とは違う。
でも、あの日以来、澱のように固まっていたものが、少しずつどこかへ消えていくような気がした。あくまで、少しずつ。
「…………ありがとう」
多分、俺は実家に帰ると思う。
こっちにいる理由はもう無いから。心残りはあるけど、それは留まる理由にはならないから。
あかりにそのことを告げるのは、きっとギリギリになるはずだ。直前まで先延ばしにして、多分、直接会って話す勇気は最後まで出ない。
気持ちを告げることも……きっと、しない。友達のままで、この街から逃げ出す。
何から何まで、情けないのに、情けないままなのに、あかりの手は俺を掴まえていてくれている。背中に回された手が、温かい。泣きたくはないし、泣かないけど、少しだけ、やっぱり、泣きたくなった。
――あの夜に、あかりが傍にいてくれたらよかったのに。
優しい手に髪を撫でられながら、そんな勝手なことを、思ってしまった。
2012.01.09
*泣けなかった君へ
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