理由


いくら頑張ってもダメなときはダメだ。今回が、そう。

「……失敗しちゃった」

手の中には紙ナプキンに包まれたクッキー。真っ黒こげに焦げているものの、それはクッキーだった。そのつもりで作ったので。何せ、家庭科の授業で作ったものだったので。

多分、オーブンのタイマーを間違えてセットしてしまったんだと思う。クッキーは見るからに真っ黒こげで、それでも試しに齧ってみたら、すごく苦くて少し涙が出た。……泣きたい理由は多分、それだけじゃないんだろうけど。

教室の隅で繰り広げられているお馴染みの光景を視界の端にとらえて、ため息をつきたくなった。あの賑わいの中に入る気にはなれない。それはいつものことだったけれど。今日は特に。今日は絶対に。





「あかり」

休み時間、廊下を歩いていたら、呼ばれた。声で分かる。佐伯くんだ。

「佐伯くん、どうしたの?」

振り返って聞いてみる。「あ、いや、その……」佐伯くんは言いにくそうに口ごもっている。

「あ、あのさ!」
「うん、なあに?」
「おまえ、その……調理実習のアレさ……」

――“調理実習”。

その一言に思わず身構えてしまう。

「さ、佐伯くん!」
「は? な、なに?」

咄嗟に声を上げたら、佐伯くんはすごくビックリしたみたいだった。佐伯くんの斜め後ろ辺りを指差してまくしたてる。

「あっち! 取り巻きの子たちが!」
「えっ、マジで?」

佐伯くんが慌てて振り返る。背後を確認して「何だよ、誰もいないし……」と佐伯くんがぼやいている隙に、こそこそと、その場を後にした。

「って、おい? あかり?」

背中に佐伯くんの声がぶつかってきたけど、振り向かないで逃げた。逃げてしまった。





放課後、メールが届いた。本文なし。件名のみの簡潔なメール。

“Sub:バイトの後、残るように”

佐伯くんからだった。いつもどおり、顔文字も絵文字も何もない簡単なメールだったけど、佐伯くんがどんな顔して打ったのか、よく分かる気がした。佐伯くん、絶対、怒ってるよね……。何か用があったから声をかけてきてくれたのだと思うけど、話も聞かずに逃げ出してしまった。アルバイトの後の時間を思うとため息をつきそうだった。もちろん、アルバイトの最中の時間も。





アルバイトの後。
珊瑚礁の制服から着替えてフロアに出ると、佐伯くんが待ちかまえていたかのように笑顔で言った。

「お疲れ」
「お疲れ様です……」
「で、弁解を聞こうか?」
「うん…………」

アルバイト中の佐伯くんは、それはもう完璧だった。完璧に他人行儀だった。板についた営業スマイルが顔に張り付いていた。わたしにさえ、そうだった。それだけ怒っているということだった。長く付き合うにつれ、分かってきた経験則。
わたしがまごまごと言い訳を頭の中で練っていると、佐伯くんは営業スマイルを崩して、首筋に手のひらを当てると、ひとつ大きくため息をついた。

「……あのあと、な」
「う、うん」
「ホントに女子たちと鉢合わせしたんだよ」
「えっ、ホント!?」
「ホントだって言ってるだろ。ったく、おまえ、俺に呪いでもかけたんだろ」
「か、かけてないよ!」

わたしが慌てて言い繕うと、佐伯くんは「どうだか」と言った。あ、佐伯くん、笑ってる。すごく怒ってるんだと思ったけど、違うのかな……?

「で、どっち?」
「え?」
「あのとき、本当に教えてくれたのか、それとも、あれは偶然だったのかって話」
「それは…………」

学校でのこと。逃げようとして咄嗟に嘘をついた。嘘が本当のことになったのは偶然。

「偶然だよ」
「ほお?」
「調理実習の話、出来れば、したくなかったから」
「なんで?」
「それは…………失敗したから」

鞄からクッキーを取りだす。真っ黒こげに焦げた失敗クッキー。佐伯くんがわたしの手元を覗き込んで眉を上げる。

「真っ黒だな……」
「うん、焦がしちゃった」
「これが逃げた理由?」
「うん、そう」

頷きを返す。佐伯くんはクッキーからわたしに視線を移すと、仕方なさそうに笑った。

「ま、そうだろうと思ったよ」
「えっ」
「おまえ、オーブンのタイマー、間違えてたし」
「気づいてたなら、教えてよ……!」
「いや、それは……人目があるし……」

佐伯くんは視線を逸らして、口の中で言いにくそうに言った。それはそうかもしれないけど……。

「盛大に失敗してたみたいだから、気になってたんだ。そのクッキー、どうすんのかなって」
「これ? 家に持って帰るつもりだけど……」
「ふうん」

すると、佐伯くんは何か包みを差し出してきた。見慣れた紙ナプキンに包まれた何かを受け取る。

「それ、俺が作ったクッキー」
「佐伯くんの?」

包みを開けてみる。わたしのとは大違い。教科書に載っていたお手本みたいなクッキーだった。さすが佐伯くんだなあ……。

「これ、もらってもいいの?」
「ああ。あー、ただし、交換条件がある」
「交換条件?」
「それと交換な」
「えっ」

佐伯くんが“それ”と言って指さしたのはわたしの失敗クッキーだった。どう見ても釣り合わない交換条件だ。

「でも、いいの?」
「それがいいんだよ」

佐伯くんは眉をひそめて「ああもう、言わせんなよ!」と怒った顔をしていた。たぶん、気恥かしいんだと思う。これは長く付き合うにつれ、分かってきた経験則、ではなくて、単に見て分かったこと。佐伯くんの耳、真っ赤だ。

「なら、どうぞ」
「ああ、うん……」

本当なら、家のゴミ箱行きになるはずだった失敗クッキー。なのに、佐伯くんはひどく大切そうに受け取ってくれた。どうしてなんだろう、と思うけど、理由はもしかしたら分からなくもない。佐伯くんがクッキーをくれたとき、わたしもすごく嬉しかったので。佐伯くんのクッキーの出来を差し引いても、十分すぎるほどに嬉しかったので。



2011.10.17
*(うれしい)理由。

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