常よりも前へ


最初に名字で呼んでいたから、ずっとそのまま。だって、そうだろ。クラスメイトの女子なんて大抵の場合、名字か、名字に“さん”づけ。普通そんなもんだろって思う。思うけど……。

「瑛くーん」

振り返って顔を確認するまでもない。あんな能天気そうな声で、この呼び方をするヤツなんて一人しか思い浮かばない。
軽快に坂道を駆けてくる足音が背中ごしに聞こえる。

「瑛くん、一緒に帰らない?」
「ああ、うん……」

息を切らしながら言われた誘い文句に返事をしながら、茶色い頭のつむじの辺りに軽く手を当てた。

「痛っ」
「あんま、デカイ声で人の名前を呼ぶな。学校のヤツに聞かれたら、どうすんだよ」
「ごめん……」

そんなに強くチョップした訳でもなかったのに、ボンヤリは手のひらでチョップされた頭の天辺をさすっている。上目づかいに眉を下げて申し訳なさそうな顔。悪気があった訳じゃないんだよな……と、そんな表情を見て思ったり。

「ほら、行くぞ」
「うん!」

背中を向けたまま行った台詞に屈託のない返事が返る。そんなことに安心したりしている。まあ、言わないけど。そういうことは。

並んで歩きながら他愛もない話をする。学校も適当に離れたから、もう他の生徒たちの目にもつかないはず。潮風が気持ちいい。

「このあいだの動物園、楽しかったね」
「ああ……まあ、そうだな」
「ワンちゃんと猫ちゃんにもいっぱい触れたし」
「おまえ、ほんっと、ツンツンベタベタ、いつまでも触ってたよな。あいつらもウンザリしてたぞ、きっと」
「そ、そんなことないよ……!」
「どうだか」
「もう、瑛くんの意地悪!」

軽く唇を尖らせるようにして、眉尻を上げて怒ったような顔をしている。笑って受け流しつつ、このとき話の内容と全然違うことが気になっていた。このところずっと気にしていた問題。

――瑛くん、だって。

呼ぶよなあ、こいつ……。それはもう、なんの衒いもなく。抵抗もなく、すんなりと。

思えば出会った頃から、こいつはこうだった。知り合って、まだそんなに経っていない頃から、全然遠慮なしに一緒に出かけようって誘ってくるし。普通、誘うか? そんなに親しい訳でもないクラスの男子を。一体なにをたくらんでるんだ……と不審に思わなかった訳じゃない。けど、いざ待ち合わせ場所へ向かって、隣りで能天気そうにしているヤツの顔を眺めていたら、そんなことを気にしている自分がバカらしくなった。

そうやって一緒に過ごすうちに、いつの間にか側にいることに慣れていた。その頃だったと思う。呼び方が“佐伯くん”から“瑛くん”に変わったのは。実を言うと、よく覚えていない。本当にいつの間にか。いつの間にか、馴染んでいた。

こいつのことは、ただ単に友達、あるいは、子分か何かだと思っていたんだ。気がついたら、一緒にいることが多くて、一緒にいると楽で。だから、友達だ。そう思っていたのに、最近、妙にもやもやして仕方がない。

……名前。

友達なら、まあ、呼ぶよな。下の名前で。名字なんて、そんな他人行儀な、って感じでさらりと。クラスメイトの女子から友達へのシフト。海野じゃなく、あかり。うん、多分きっと不自然じゃない。うん、大丈夫。呼べばいいじゃん。大丈夫大丈夫。

……まあ、呼べないから、悩んでいるんだけど。

「でね、瑛くん」
「…………何」

クラスメイトから、友達、あるいは子分に昇格したヤツが軽く首を傾げて、覗きこむようにして訊いてきた。茶色い髪が首の横で揺れる。

「なんて呼んだらいいかな?」
「…………いや、呼ばないし」
「呼ばないの?」
「呼ばない。……いや、別に、心の準備が出来てないとか、そういうことじゃなくてだな……」
「でも呼んであげないと、可哀想じゃない?」
「……そう、か?」
「うん。さみしいよ。呼んであげた方が良いよ」
「…………そっか。あのさ……」
「ホワイトタイガーって、ちゃんと名前で呼んであげた方がいいよ」
「………………」

ちょっと待て……。

「待て。何の話だ」
「えっ、だから、ホワイトタイガーの話だよ」
「ホワイトタイガーがどうかしたのかよ」
「うん、だから、今度動物園に来るんだって」

そういえば、そういう話があったよな……と思いだした。しかし、話の流れがつかめない。

「それで?」
「うん、だからね、犬のことはワンちゃんでしょ。猫は猫ちゃんでしょ」
「……まあ、敢えて突っ込まないけど、それで?」
「ホワイトタイガーも何か別の呼び方がないかなあって」
「ホワイトタイガーでいいだろ」
「うーん、でも、ただ名前で呼ぶだけだと、少しさみしいかなって」
「別にどうだっていいだろ、そんなこと」
「そんなことないよ。呼び方は結構重要だよ」
「………………」

その台詞は、ちょっと胸に来た。さっきまで考えていた内容のせいだ。呼び方、か……。

「ホワイトタイガーちゃん……ちょっと、長いかな。うーん、トラちゃん、だと、虎と区別がつかないよね……」

ぶつぶつと、ああでもない、こうでもない、と思案を続けるボンヤリのつむじ辺りに思わずチョップしていた。人の気も知らないで、こいつ……と思ったせいだ。

「痛っ」
「バカなこと言ってないで、帰るぞ」

どう呼んだものかな、と少し考えて、やっぱり止めにした。

「海野」

いつも通り、これまで通りの呼び方。
一番最初にそう呼んでから、以来、ずっとそのまま、変わらない。
変わったのは、俺の心境だ。最近は海野と呼ぶたびに、もやもやする。けれど、名前で呼ぼうとすると、もっと、もやもやする。どうしたっていうんだ、一体。

一人で勝手にむしゃくしゃして、声だけかけて、背中を向けて先に歩き出した。海野の声が背中にぶつかる。

「待ってよ、瑛くん!」

ほんっと、普通に呼ぶよな、こいつは……。少しずるいって思わなくもない。別に変えて欲しいとは思わないけどさ。

その日はそのまま普通に一緒に帰ったけど、このときの海野の台詞がいつまでも頭に残っていた。多分、本人は何気なく、何の含みもなく言っただろう台詞。

――ちゃんと名前呼んであげた方がいいよ。

ちゃんと名前で、か……。





もういい加減見慣れてきた後ろ姿を見かけた。場所は屋上で、別に探しまわった訳じゃない。少し外の空気が吸いたくなって、たまたま来てみたら、見つけた。他の生徒が周りにいないことを確認する。さて……。

ずっと考えていたんだ。名字なんかじゃなくて、名前で呼んでみたら、どうかなって。でも、いざ、目の前にすると、何だか気恥かしくて呼べなかった。

ずっと考えてた。今も考えてる。名前で呼んでみたら、どんな感じがするだろう? どんな反応をするだろう。ビックリするかな。いつもみたいに『えっ?』って聞き返してくるかな。そんな反応をされたら、恥かしくて耐えられそうにない。ずっと、そんなことばかり考えて、ぐるぐるしていた。

でも……。

海野はフェンスの前に立って、ぼんやりと風景を眺めている。フェンス越しに眼下に広がるのは、羽ヶ崎の海だ。空と境界を曖昧にして、水平線がきらきらと光を反射している。

そうやって海を眺めている海野を見ていたら、妙に頭が落ち着いてきた。小さなことを気にしているのが、バカらしくなった、っていうのかな。とにかく、気がついたら呼んでいた。

「あかり」

自分の声を自分の耳で聞いてはじめて、自分が今なにをしたのか気づいた。何、呼んでるんだ、俺?!

声は風にまぎれたりしないで、ちゃんと聞こえたらしい。こういうときばかり、ちゃんと聞こえている。振り返る。

「瑛くん、どうしたの?」

あかりの反応は、本当に普通だった。いつも通り。いつもと変わらない反応。まるで、名前で呼ばれたことなんて、気にしていない、みたいな。あるいは……名前で呼ばれるのが、まるで当たり前のことだったみたいに、すんなりと振り返った。

うろたえてるのは、俺の方だ。

「ああ。えぇと……」

呼んでおいて、何を話すか全然考えてなかった。

「……今度の日曜さ、おまえ、空いてる?」

それで結局、次の休みの予定を訊いていた。何気に俺から誘うのはこれが初めてだったりする。

「うん、空いてるよ」
「じゃあ…………水族館、行かないか?」
「うん、行こうよ!」

本当に屈託のない反応。初めて名前を呼べたのも、デートにまで誘えたのも、嬉しいけど、ちょっと悔しいような気がする。変な気分だ。少しむず痒いような…………違う、くすぐったいんだ。何だろうな、この感じ。

「じゃあ、瑛くん、来週、はばたき駅で待ち合わせだね」
「……ずるいな、おまえ」
「? 何のこと?」
「別に、何でもない」

こんなにすんなり行くなら、もっと早く……と思わないでもなかった。ずるいよな、というのは、名前で呼ぶのも、休日、遊びに誘うのも、全部、あかりはごくごく初期の段階で済ませていたことだったからだ。ずるいよな、おまえ。あんなに簡単にあっさりと人との距離を縮めてたなんて。まあでも、時間はかかったけど、散々悩んだけど、呼べたから、いいかなって思う。……それに、誘えたし。

「来週は水族館デートだね!」
「……でっ」
「瑛くん?」
「おまえ、ほんっと、ずるいな!」
「えっ? 何のこと?」
「そうやって無自覚なとこが、だよ!」

あかりは、きょとんとした顔をしている。無自覚すぎて始末に負えない。でも、今はチョップはしない。総じて気分がいいのと、あと……あれはあまり好きな子に対してすることじゃない、と今頃思い至ったせいだ。呼び方が名字から名前に変わっただけなのに、自覚させられたことは多かった。本当に今更なことではあったけれど。






常よりも前へ

[title by 24番目のネジ さま]
[20000hit thanks! / 2011.10.20]



*リクエスト内容は【デイジーがみんなの呼び方を変えるように、瑛くんにもデイジーの名前の呼び方を変えるまでの葛藤?的なもの】
*カウンター20000番を踏んで下さった方へ捧げます。素敵なリクエストをありがとうございました!

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