やっぱり、少し勇気が足りない


その日の朝、誰よりも早く登校して誰もいない教室で例によって英語の予習をしていたら、いきなり教室のドアが開いた。まだ他の生徒が登校してくるには早すぎる時間帯。咄嗟に笑顔を取り繕った。けれど相手の顔を確認して、すぐに笑顔を取り消した。
ドアを開けたまま教室に入ってこようともしないで戸口でボケっと突っ立っているのは、あかりだった。条件反射みたいに悪態が口をついて出る。

「ったく、ビックリさせるなよ」

ところが、あかりはというと、こっちの台詞とは関係なしに、開口一番、こんな台詞を言い出してくる始末。ご丁寧に目を輝かせて。

「……メガネだ!」
「……………………」

肩の力が抜ける、というよりも、脱力してしまった。相手の反応があんまりボケボケだったものだから。
あかりが机と机の間を通り抜けながら席に近寄ってくる。

「佐伯くん、今日もメガネなんだね」
「ウルサイ。はしゃぐな」
「ふふっ!」

……何なんだ、その笑顔。
人の席の前に勝手に座って、あかりはやたら嬉しそうに人の顔を覗き込んでくる。こっちはメガネ姿をあまり見られたくないから、堪ったもんじゃない。

「何だよ、見るなよ」
「だって、久々なんだもん。佐伯くんがメガネかけてるの」
「…………」

そう、前にもあかりにメガネ姿を見られたことがあった。
今日みたいに、朝早くに学校で予習をしているところをあかりに見られた。確か冬の日の朝だったと思う。本を読むときとか、勉強をするときはメガネの方が楽だから、誰もいないのを良いことにメガネをかけていた。
あのときは気恥かしかった。今だって、勿論気恥かしい。メガネはあまり似合わないと自分では思っている。とうとう、無遠慮に注がれる視線に堪りかねて声を上げた。

「あーもう、見るな! 減る!」
「えっ?」

あかりが不思議そうに首を傾げた。

「減るって、何が?」
「…………何かが」
「何それ!」

あかりが、あはは、と声を立てて笑う。何がそんなにおかしいんだか。人の気も知らないで、と思ってしまう。いやまあ、流石に今の切り返しは自分でも失敗だったと思わなくもないけど……。

「おまえ、笑い過ぎ」

手を伸ばして、笑いこけているボンヤリの鼻をつまんでやった。「わわっ……」鼻をつままれて、あかりが小さく悲鳴を上げる。少し、吹き出しそうになる。

「……おまえ、変な顔」
「さへきふんのへいだお」
「何言ってるか、分かんないし」

鼻を解放してやると、大げさに鼻を撫でている。

「佐伯くんのせい、だよ!」
「おまえが人のこと、からかうからだろ。そもそもの話」
「からかってないよ。佐伯くん、メガネ似合うよ」

本当に素みたいな顔で、そんなことを言って寄越す。黒目がちの真っ直ぐな目に耐えられなくて、メガネを外した。メガネは楽で良いけど、少し物がよく見えすぎる気がしなくもない。

「あっ、外しちゃうの?」
「ウルサイ」

メガネをケースにしまおうとしたら、声をかけられた。

「ねえ、ちょっと貸して」
「は? 何を?」
「メガネ、貸してくれる?」
「……何でだよ」
「ちょっと掛けてみたいなあって。……ダメ?」

メガネなしのボンヤリとした視界でも分かる、上目づかい。そういうのは反則だと思う。

「……少しだけな」
「やったあ!」

メガネ一つで、何がそんなに楽しいんだか。あかりは嬉々とした様子でメガネを掛けた。……まあ、ボンヤリとしか見えないけど。

「わあ、全っ然見えないよ!」
「……おまえ、視力、何?」
「両目とも2.0!」
「……この健康優良児め」
「それって、褒めてくれてるの?」
「さあな」
「あれれ、何だかクラクラするよ」
「当たり前だろ。近視に乱視も入ってるんだから」
「佐伯くん、よくこんなの掛けてられるね……」
「おまえなあ……いい加減にしろよ」

あかりは感心したようにメガネをかけたまま辺りを見回している。新しいおもちゃを見つけた子供みたいに物珍しげな様子。ため息をついて手を差し出した。

「ほら、そろそろお父さんにメガネ返しなさい」
「うん、分かったよ、お父さん……」

あかりがおぼつかない手つきでメガネを外そうとする。ふと、何か思いついた様に、手を止めて、もう一度顔を上げる。

「何だよ。ほら、目、悪くなるだろ。早く外せって」
「ね、佐伯くん」
「何?」
「メガネ……似合う、かな?」

メガネなしのボンヤリした視界でも口調で分かった。少し照れくさそうにはにかんで、小首を傾げて。不覚にも、ときめかなくもない、そんな聞き方。

「…………よく見えないから、分かんないし」
「え?」
「俺、いま裸眼だから、よく見えないんだよ」
「あ、そっか……じゃあ」

机に肘をついて、あかりが身を乗り出させる。

「これなら、どう?」
「……まだ、見えない」
「そう?」

無防備に、もっと前に体を寄せてくる。

「どう、かな?」
「………………」

こいつって、本当に無防備だな、って思う。
メガネをかけているせいで距離がはかれないのかもしれないけど、さ。
でも、何の警戒も無しに、こんな近くに顔を寄せてくるのは、幾らなんでも無防備すぎると思う。俺だって、ほら、男なんだし……。
いや、俺が言い出したことなんだけど……。
どういう訳か、距離が近くて、胸はドキドキと高鳴っているのに、頭は妙に冷静だった。メガネ無しで、いつもより物はっきりと見えないせいかもしれないけど……。
次に口にした自分の声はいつもより擦れていた。

「……もっと」
「え?」

耳元で心臓が鳴ってるみたいに自分の心臓の音が煩かった。あかりとの距離が近い。今、少しでも、顔を前に傾けたらキスしてしまいそう。それくらい距離が近い。視界がはっきりしないせいで距離感がつかめない。距離がはかれない。はかりかねてる。もっと……今なら、もっと近寄っても良いんじゃないかって……。

「おはよう!」

よく通る声が教室に響いた。次いで、ドアを閉める音と、足音。

「やあ! 君たち、随分と早いね」
「あっ、氷上くん、おはよう!」

あかりが振り返って、声の主にあいさつを返している。

「おはよう、海野さん。……おや? 君は普段、メガネをかけていただろうか?」
「あ、ううん、これは、わたしのじゃなくて……」

あかりの台詞を遮るように声を被せた。

「おはよう、氷上くん。随分、早いんだね」
「おはよう、佐伯くん。僕はこれから生徒会の活動があるんだ。“あいさつ”運動だよ」
「そっか。大変だね。頑張って」
「ああ、ありがとう」

氷上が一つ頷いて、自分の机に鞄を置く。
コンタクトケースを持って、自分の席を立つ。
あかりの気遣わしげな声が背中にかかる。

「佐伯くん?」
「…………ちょっと、休憩。外の空気を吸ってくるよ」

意識して、同級生たちに見せる笑顔を向けて言ってやった。今、この空間にいるのは、堪らなかった。





トイレの洗面所で軽く顔を洗った。……何、やってんだ、俺。しかも、学校で。一瞬、本当に、一瞬……キス、してもいいかな……って、思ってしまった。魔がさしたなんて、そんなの理由になんかならないと思う。氷上が教室に来てくれてよかった。分からないのは、少し残念に思っている自分の心だ。

「……駄目に、決まってるだろ…………」

あかりと顔を合わせるのが気まずい。顔が赤くなりそうで嫌だ。……意識しなけりゃ良いんだ。あかりはボンヤリだから、さっきのことも気づいてる訳ないし……。

教室には戻りたくなかったけど、いつまでもこうしてる訳にもいかない。ハンカチで顔を拭う。コンタクトを入れて、教室に戻ることにした。





「目、悪くなるぞ。ボンヤリ」

教室に戻ったら、あかりが元の席に座ったまま、ボンヤリと窓の外を眺めていた。人のメガネをかけたまま。
氷上はもういなくなっていた。
あかりが振り向いて、口を開く。

「おかえり、佐伯くん」

メガネを外して何度か目を瞬きさせている。

「あー、目が痛かった」
「当たり前だろ」
「……不思議なの」
「何が?」
「佐伯くんは、いつもこのレンズ越しに物を見てるんだね」
「………………」

畳んだメガネのつるを指先で撫でながら、あかりが訥々と喋る。

「佐伯くんが、どんな風に物を見てるのか、見てみたかったけど、何だか、クラクラしたよ……」
「…………視力が違うんだから、仕方ないだろ」
「うん、そうだけど……あ!」
「何!? 何だよ?」
「感想聞いてないよ。メガネ、似合ってた?」
「………………だから、見えなかったんだって」
「そう?」
「そうなの」

あかりが何かを考えるように眉間に皺を寄せる。

「ほら、メガネ、返せよ」
「でも…………」
「ん?」
「あんなに、距離が近かったのに」

思わず、メガネを取り落としそうになった。

「……は!?」
「佐伯くん、すごく目が悪いんだね……あんなに近くでも見えないなんて…………」
「……おまえ、それ、ワザとか?」
「え? 何が?」
「……何でもない」

こいつがボケボケで良かった……。でも、距離が近かったことには気づいてたのか。それにしては、あまり慌ててなかった気がするけど……。

もうずっと、あかりとの距離をはかりかねてる。もっと近づいても良いのか。それとも、もう、近付き過ぎなのか。足りないのか。

はかりかねて、分からなくて、たまに、バカみたいなことをしたり。
……だから、これも、そうなんだと思う。バカな一言のひとつ。

「…………似合っていなくもなかった」
「え?」

お得意の聞き返し。ま、想定内ではある。
あかりが不思議そうに小首を傾げて寄越す。

「見えてなかったんじゃないの?」
「ちょっとだけ、見えてた」
「そうなの?」
「流石にな?」
「……佐伯くんって、天の邪鬼だね」
「おまえは、ボケボケなのな」
「そんなにボケてないよ!」
「ボケてるだろ。この素っとぼけ」
「もう!」

あかりが頬を膨らませて、むくれてみせた。そんな表情がおかしくて、今度こそ吹き出してしまった。思い切り笑われて、あかりは不満そうに眉尻を上げたけど、そのうち、釣られたように笑い出した。……こういう距離感、いいなって思う。肩の力が抜けて居心地がいい。こういう距離感のままでいられたら、って思う。

でも、いつか……いつかまた、距離をはかりかねて、バカな事をしてしまう日が来るのかもしれない。例えば、さっきみたいに魔がさして……とか。嫌われるのだけは、耐えられそうにないから、出来ればそんなことはしたくない。そう思いながらメガネをケースに仕舞い込んだ。距離を縮めるには、まだ、勇気が足りないみたいだ。




やっぱり、少し勇気が足りない




[title.確かに恋だった様/2011.10.12]
*15000hitありがとうございました!
*リクエスト内容は【例の早朝メガネイベントで、瑛くんのメガネをデイジーが奪ってかける。「おまえ、いい加減にしろよ?」「うっわ、何にも見えない!!」みたいなやりとりの二人】でした。
*ぽんさんに捧げます。リクエストから完成まで、随分と時間がかかってしまって、ごめんなさい><。とっても素敵なリクエスト、ありがとうございました!

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