ベランダの窓を開けると、裸足のままコンクリートの上に降り立ち、手すりに寄りかかった。ビールの缶を片手に、夜空を見上げる。シャワーを浴びて熱を持った身体に、ビールを注ぎこんだ。なまぬるい風に冷たいビールが気持ち良い。いつの間にか、夏になったんだなと感じる。こういうのを、至福のときって言うのだろう。昼間のことがなければ…だけど。

あの最悪な日…見事に雨を浴びて風邪をひいた梅雨のあの日から、私は仕事馬鹿になった。ようやく仕事に慣れてきて、面白みを感じる機会が増えたのも、もちろん理由のひとつではあるが…一番の理由は伊達社長対策。

お茶入れなどでの伊達社長との接触および、伊達コーポ関連の業務を私に回さないという約束を毛利先輩とチカ先輩にお願いした。そのため条件が…自分の通常業務、先輩に頼まれる仕事、その他どんな小さな雑用さえ迅速かつ正確にこなすこと。

伊達社長と関わらない環境は、私を仕事馬鹿にしたのだ。なんだかんだで最初はきつかったけど、最近はむしろ楽しささえ感じる。やっぱり、貧乏人は貧乏人らしく、真面目にコツコツはたらけばいいんだ。変に金持ちと関わるといけない。


「なのに…ほんっとにあのバカ社長は何考えてんだか」


あの日以来、避け続けてはいたものの…伊達社長とは社内で何度か顔を合わせた。こっちが避けているのをわかってるはずなのに、向こうはなぜか私を見つけると追いかけてくる。鬼ごっこは得意なので今までは捕まってはおらず、私の全勝で上手くまいて来たのに。一ヶ月近く経つ今日も、私を見つけたとたん追ってきた彼に、私は不本意ながら腕を捕らえられてしまったのだ。


『おいっ、wait!なんで逃げんだよ』

『は、離してください』

『随分と器用に逃げ回ってんじゃねぇか。一ヶ月も俺を避けようだなんて、覚悟はできてんだろうなkitty?』

『なんのことだか、わかりかねます』


それ以上言葉を返したら、今までのように憎まれ口を言い返してしまいそうで、そうしてしまったら伊達社長のペースに飲み込まれてしまいそうで、私は無理やりに腕を振りほどき、振り返らずにその場を後にしたのだ。後ろからなにか叫んでいたような気がしたけど、聞こえない振りをして逃げ切った。


昼間の出来事を思い出していたらビールの缶はあっという間にカラになっていて、ついさっき冷蔵庫から出してきた三本目に手を出す。いつもなら気持ちよく酔って来るはずが、酔いは全く回ってこなかった。脈拍は上がっているのに、頭の中は冴えている。

大体…なんで私なんかに関わるんだろう?そりゃあの出会い方じゃ、突っかかってくるのはわからなくもないけど…。背に腹はかえられなかったとはいえ食事に連れてって貰った記憶も、数回…。貧乏人をからかって楽しんでる?…にしてはよく飽きないな。なんにせよ、あの人の考えてることはまるで想像つかない。

次から次へと色んな考察が浮かんでは消え、それは止むことはないようで…我ながら困ってしまう。もう関わらないと決めたんだから忘れたいのに。

「あーあ、なんだかなぁ…まったく」

溜め息を吐くと、突然インターホンが鳴り響く。こんな時間に、一体誰?思いもよらず鳴ったインターホンの音に振り返って、部屋の向こう側のドアを見た。

また短くベルが鳴る。きっと、新聞屋か何かだ。今はそういうのも面倒くさい。無視を決め込もうと、バルコニーの向こうを見やった。それなのに、後ろからまた急かすようにベルが鳴る。しつこいな!新聞屋なら、怒鳴ってストレス発散してやる!ずかずかと足音を立てて向かい、ドアの向こうの相手を確認しようと覗き込むとそこには…。

「さ、佐助さん!?」

「奈々ちゃーん、いつまで待たせるつもりさー」

少しすねたような表情の佐助さんが、結構な近さで覗き窓の視界に居たことに驚いて、ドアの前で思わずあげた私の声は、どうやら向こう側にも聞こえたようで、彼は文句を口にしながらさらに顔を近づけてきた。

「う、わ!すみません、今開けます!」

佐助さんの登場はいつも唐突だ。なんとなく独りで居たくない時にタイミングよく現れる。お母さんのような安心感をくれる彼の存在にいつも助けられている気がするのは、きっと気のせいじゃないんだろう。


「お、おまたせしました」

「居留守なんて酷いなーもう、そんなに俺様のこと嫌い?」


ドアを開けるといつもの調子でそういう佐助さん。なにやら彼の手荷物からはいい香りがして、私は思わず空腹感を覚えた。そういえば…夕食何にも食べてないや。

「あ、いやそんなつもりは!てっきり新聞の勧誘かなんかかと…」


そこまでいいかけたところ、ぐううと鳴り響いた私のおなかの音で会話は途切れた。なるほど…私のおなかは正直者だ。佐助さんから漂う美味しそうな香りに、すばやく反応を示したようだ。


「……」

「……っぷ、あっははは!!」

「わ、笑わないでください!」

「そっか、なるほどね〜それならまあ許してあげよう!」

「だ、だからってそんな急に話をそらさなくても…」

「ったく、我が侭だな奈々ちゃんはー」

「もうっ、佐助さん!!」

「ごめんごめん、あんまり可愛い反応するからつい、ね。それはそうと実は今日さ、真田の旦那の実家から来た野菜を分けてもらってね。沢山あったから煮物とか作ったんだけど、お裾分け貰ってくれる?」

「わあ、いいんですか?嬉しいです!」


喜んで彼の包みを受け取ろうと、ドアノブにかかっていないほうの手をさしだそうとしたら…なんとビールの缶でふさがっていた。は、恥ずかしすぎる。


「ぶっ!あっはははははは!!!び、ビール飲んでたのにお腹なっちゃったの?」

「も、もういいです!佐助さんのバカ!帰ってくださいー」


あまりの恥ずかしさに開けていたドアを閉めようとすると、慌ててそれを止める佐助さん。力では当然敵うはずもなく、ドアはまた全開状態に…。

「まあそう拗ねなさんなって、お腹すいてるんでしょ?」

「……」

「はいはい、じゃーあ…これと、これ交換ね」


まるで拗ねる子供をあやすような口調の佐助さんは、私の手から飲みかけのビールをスッと取り上げると、かわりにお裾分けの入ったタッパーを持たせる。

「え、あっ…!」

そして佐助さんは、私が反論する間もないうちに、そのビールをぐびぐびと飲み干してしまった。

「あー、私のビールが…」

思わずそんな可愛げのない台詞を吐いて、慌てて口を塞いでも…あとの祭。佐助さんは笑いをこらえて小刻みに震えてる。


「ごめんって、じゃあお詫びにちょっと飲みにいく?今日は奢っちゃうよ」

「はいっ是非!すぐ支度しますから、ちょっと待っててください!」

「あはは、了解」


“奢り”という最重要ワードに私の貧乏性レーダーは即反応。佐助さんから受け取ったビールの空き缶とお裾分けを手に、佐助さんを玄関先へ残して、慌てて奥に戻る。冷蔵庫にタッパーをしまい終えて外出着に着替えていると、テーブルに置いてあった携帯が着信を知らせた。この着信音は実家からだ。そういえば最近何度か実家から連絡があって留守電も入ってたりしたけど…、ここのところ忙しくて『あとでいいや』の繰り返しだった。


「もしもし、お母さん?」

『奈々!?ああ良かった出てくれて!!』

「なに、そんなに慌ててどうしたの?」

『大変なの、お父さんが倒れたわ』

「え?なに、それ…嘘でしょ」

『とにかく、来られそうなら今週末にでも帰ってきて。また連絡するわ』

「ちょ、母さん!」


電話からは、通話を終了したときの機械音が響いている。突然のことに、私は頭が真っ白になった。心配だから、できることなら今すぐ帰りたい。けれど帰るといったって、私の実家は遠い遠い田舎だ。最短なら飛行機で帰るしかない、船や電車だと着くのは明日の昼過ぎだ。とはいえこの時間じゃ飛行機も最終便しか残ってない。今からじゃ間に合うかどうかもわからない。どうすればいい、どうすれば…。






そんなのうそだ
(頭が上手く働かなくて、私はその場にずるずると座り込んだ)



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