もうすっかり日も沈んだころ、人も疎らな室内に私の絶望交じりの声が響き渡る。


「あの、今なんて仰いました?」


今しがた残業をやっと終え帰り支度をしていた私に毛利先輩から言いつけられた指令は、思わず耳を疑いたくなるくらいトンでもないものだった。突きつけられた難問を信じたくないあまりに、耳が聞き取ることを途中で拒否した。
それでも毛利先輩に無視を決め込むなんて出来るわけないので恐る恐るもう一度聞きなおしたのだ。どうか自分の聞き間違いであることを願って。


「茶を出して来いと言った」

「えーと、どなたにでしょう?」

「何度も言わねば判らんのか。伊達の若造が応接室に来ているから、接待して来いといったのだ」


振り返ることもしないままキーボードをカタカタと打ち続け冷ややかに答える毛利先輩。やっぱり聞き間違いじゃなかった。
ついこの間あれほどお茶入れだけは勘弁してくれと頼み込んだのに!と泣きたくなるが…毛利先輩にそんな言い訳が通じるはずもない。
しかも運の悪いことに、庇ってくれるチカ先輩は今日は出張で不在だし、かすがと真田くんはすでに帰宅している。


「私が、ですか?」

「他に誰がいる」

「あっははー、やっぱそうですよねぇー」

「早く行け。やっと漕ぎつけた重要な契約なのだ、くれぐれも粗相はするでないぞ」

「う…」


有無を言わせない態度の毛利先輩の言葉に私が思わず言葉を詰まらせると、それを聞いた彼はキーボードを打つ手を止めクルリと椅子を回して此方へと向き直った。


「何か文句でも?」

「い、いえ」


腕を組んで見据えられ、そう一言すごまれてはもはや逃げ場などない。
ああああ、なんでチカ先輩はこんなときに限って出張なんて…!と理不尽な文句を胸に重たい足を引きずってしぶしぶ給湯室に向かうしかないのだ。




やかんを火にかけ急須に茶葉を入れて客人用の茶碗と茶托を2つ用意し、湯が沸くのを待つ。
その手持ち無沙汰な時間が、また私にあの男の嫌味な態度を思い出させた。自分はお金持ちだからって他人のこと貧乏人貧乏人って…!いつか痛い目見るに決まってる!!
ああもう、本当に行きたくない。残業が終わったら今日は珍しく外食でもしようかと思ってたのに(外食って言ってもどうせファミレスとかだけどさ!)
どうして私ってこうもついてないんだろう。


「お腹すいたぁぁ」


思わずそう呟いてため息をひとつ吐けば、待ちかねていたお湯が沸いたようでやかんがしゅーしゅーと音を立てて蒸気を上げ始めた。
かちゃんとコンロの火を止めて、やかんから急須へとお湯を注ぐ。
よし、早く行って早く済ませて速攻で帰ろう。



極力あの男に関わらないようにしようと固く心に決め、お茶の乗ったお盆を手に応接室の戸をノックする。
入っていいぜ、と偉そうな返事が返ってきたのを聞いて私は意を決して扉を開き中へと歩みを進めた。


「お茶をお持ちしました」

「ああ、そこに置いてくれ」


部屋を一瞥すればソファーに腰掛けているのはニヤニヤと嫌味っぽい表情をつくる馬鹿社長一人で、どうやらあのヤクザな顔の秘書は不在らしい。
うあー、ほんと何処までついてないの私…。

若干ひきつり気味の営業スマイルの裏側でそんなことを考えていたら、2杯あるお茶を目に留めた彼が何かを企んだような笑みを一層濃くした。


「悪いが今日は小十郎はいねぇんだ、そのもう一杯はあんたが此処で飲んでけよ」


はい?今なんと??此処で、私が、アンタと、お茶を飲むですって?
出会い頭から私のこと、さんざん貧乏人だなんだって馬鹿にしたくせに一体どの口でそんな台詞を…!!

頼まれたってごめんだわ!!と叫びだしたくなるのを、すんでのところで思いとどまった。
耐えろ、耐えるのよ奈々…!きっと奴の狙いは私を怒らせて破滅に追い込むことなんだから、罠にかかっちゃ駄目だ。



「い、いいえ。生憎私は仕事中なので、遠慮させていただきます」


無理やり作り笑いで何とか乗り切ろうと必死で口角をあげ、なるべく丁重に断った。
一方それを見た彼は、そんな台詞は予想の範疇だと言わんばかりの顔をしてヒュウとひとつ口笛を吹いてみせる。


「今日は随分と淑やかじゃねぇか。出会ったときの勢いはどうしたんだkitty?」


確信犯的な笑みを浮かべ馬鹿にした態度でいる彼に、流石の私も堪忍袋の緒が切れて怒鳴りつけてやろうと拳を握り締めたまさにその瞬間。
静寂だった室内に、ぐぅぅぅーと間抜けな音が響き渡った。


「へ…?」

怒鳴り声の変わりに私の口をついて出たのは何とも気の抜けた声だった。
もしかして…いや、もしかしなくても…今の音は私の空腹の象徴だろう。
やっ、ちょ!待って待ってタンマ!今の無しっ!!

居たたまれなくて俯いたまま雰囲気で彼の様子を伺えば、笑いを堪える小さな声が聞こえてくる。
ああもう、こんな時に何でぇぇ!なんて、タイミングの悪い。いやもう本当…コレ何の罰ゲームですかね?



「ふっくくく…アンタ、可愛いとこもあんじゃねぇか」

「ち、ちがっ!!今のは…!!」

「ほーう、さっきのvolumeで言い逃れできると思ってんのか?」

「…っ!」

「まあそんなに威嚇すんなよkitty。大人しくしてりゃ食事くらい連れてってやるから」



笑い出すのを堪えつつそういった彼の台詞の、食事という単語に私の貧乏性レーダーがピクリと反応する。
大会社の若社長と食事、いったいどんな高級料理が…。
いっ、いやいや!血迷っちゃ駄目だよわたし!!相手はこの最低男なんだから!散々高級料理食べちゃった後で自分で払えとか言い出すかもしれないし、それ以前にこの男の顔を見ながら食事をしなきゃいけないっていう最大のリスクが…!!
あああ、でも最高級料理食べてみたい!この機会を逃したら一生食べられないかもしれないし…。

ど、どうしよう…!!!





究極の取捨選択
(言っとくけどアンタに選択権なんかないからな)(っ!?)(ほら行くぜ。社長命令だ、you see?)(え、ちょ!)







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