短編 | ナノ
リップクリーム
『いたっ……』
友達と話している最中、一瞬唇に痛みが走った。指をあててみると、少しだけ血が滲んでいる。
「あらら。ちゃんとリップクリーム塗ってる? 冬は乾燥するんだからちゃんとケアしないとダメだよ!」
美容マニアとしてクラスでも一目置かれている友人からの的確なアドバイスが耳に痛い。ズボラな私にはリップクリームを塗ることすら億劫なのだ。
「それに、そんなんじゃ花宮くんからキスしてもらえないぞー!」
やたらとキスを誇張しながら、ウインク付きで言ってくる友人を冷めた目で見つめる。
『そもそも、キスなんか全然しないって。もう部活の時間だから、また明日ね!』
「はーい、頑張ってね!」
ヒラヒラと手を振りながら、小走りで体育館に向かう。遅れでもしたら、うちの監督兼主将様の機嫌を損ねかねない。
『おはよう』
「おう」
すでにジャージに着替えて体育館でアップをしている真と軽く挨拶を交わし、部室へ向かう。
『おはよう』
部室のドアを開けると、いつものメンツが揃っていた。
「おはよん、今日も相変わらず化粧っ気ないね。」
会って早々原が喧嘩を売ってくる。
『いや化粧もなにもうちの学校は化粧禁止だからね?』
「そうだけど、色付きリップとか使うんじゃねえの? イマドキの女子って。」
『私にイマドキを求めないで。ていうか、あんた達さっさと準備して行きなよ! ブチ切れられても知らないからね!』
やべ、と言葉をもらしながら原、古橋、ザキが部室をあとにする。
『ほら瀬戸も!』
ベンチ下に転がっていたワックスを押し付けつつ、寝転がっている瀬戸を叩き起こす。
『知らないからねー、真に怒られても。』
んー、と言うだけでなかなか起き上がらないため、もう諦めることにした。怒られてもこれは私のせいじゃない。ため息をひとつついてドアに向かう。
すると、ふいに視界がグラリと揺れた。
『うわっ……ちょっと何してるの!』
「んー」
急に手を引かれて体勢を崩した私は、そのまま瀬戸の腕の中に収まっていた。抱きしめられているというか、抱き枕にされているというか。
『んー、じゃなくて! 離してってば!』
腕から抜け出そうと必死にもがいていると、鈍い音と共に、瀬戸の苦しそうな呻き声が聞こえた。
「何やってんだ、お前ら」
そこには満面の笑みを浮かべた真が、どす黒いオーラを放ちながら立っていた。
「ああごめんごめん、今行く。」
何事も無かったかのように起き上がった瀬戸が部室を去って行った。そして取り残される私。
「部活終わったら……分かってんだろうな?」
『は、はい』
完全にキレてらっしゃる。トレーニング5倍?外周50?それとも1ヶ月1人でマネージャー業務? 部活後に告げられるであろうペナルティーを想像しながら、重い足取りで部室を出た。まあ何にせよ、今日が私の命日。
*
「で、何か言い残したことは?」
『だから、あれには訳があって……』
部活が終わり、私は部室で真から説教をされている。
「急に手を引かれて、バランス崩したってとこか?」
『分かってるなら何でキレてるの!? 完全に私のせいじゃないよね!?』
「油断してたお前もお前だ、健太郎の寝癖を悪さは知ってんだろ」
『そんなこと言われたって……』
なんとも理不尽な言われようだ。瀬戸の寝癖が悪いのは私のせいじゃない。
「名前。」
突然名前を呼ばれて俯いていた顔をあげると、唇に温かい感触。驚きのあまり固まっていると、目を開いた真と視線が絡んだ。
『な、なにっ急に』
ヤバい、このままでは真のペースに呑まれる。絡めとるような視線から逃れようと身体を引いた。しかし真は私の質問に答えることもなく距離を縮めてくる。
「ホント馬鹿な女だな」
そう一言呟くと、おもむろに私の後頭部に手を回し、荒々しいキスをしてきた。息継ぐ間もなく繰り返されるため呼吸が苦しい。真の胸を叩いてアピールするも完全無視。酸欠になりかけ、力が抜けてきたところでようやく解放された。
『いっ……たい』
唇、しかも先程ひび割れた箇所にピンポイントで噛み付いてから。口内に鉄の味が広がる。不快感を覚えつつ真を睨みつけると、何とも満足気な表情をしている。
そして再び顔を近付けて来たかと思うと、先程とは打って変わって、ゆっくりと深いキスをしてくる。
『んんっ……』
しかし、余計に鉄の味が広がるうえに、真がわざと傷口に歯をあてがうため、ピリッとした痛みに何度も襲われる。
「ふはっ、こんなんで息上がってんじゃねえよ。」
『誰のせいだと思ってるのよ、この悪童!』
「うるせえ。これに懲りたら簡単に男にスキなんか作らねえことだな。」
それって、もしかして嫉妬してる? そう考え出した瞬間一気に愛しさが押し寄せてきた。
「ほら、行くぞ。」
『はいはいっと。』
真の分かりずらい表現方法に、思わず口がほころぶ。しかし、傷口を抉られるのは二度とゴメンだ。これからはきちんとリップクリームを塗ろうと固く決意したのであった。
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