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今日は待ちに待った始業式だ。私は式が始まる前に、こんな日にも構わず朝練をやっているテニス部のところへ向かった。そろそろ終わる頃だろう。
テニスコートに着くと、ちょうど練習は終わって、皆が更衣室へ向かうところだった。仁王は髪の色が違うおかげですぐに見つかる。私はいつものように声をかけた。
「仁王先輩、おはようございます」
「ふぁ〜。ん……ん?」
あくびをしながら挨拶に応えた仁王だったが、違和感があるのか私を二度見した。そしてその彼の目が一瞬でも見開いたのを私は見逃さなかった。
「名字ちゃん、なんで3年の名札しとるんじゃ」
立海は学年ごとに名札の色が違う。一年は赤色、二年は黄色、三年は青色だ。二年生の時は縫い付けが取れてから刺繍するのが面倒臭くて付けてなかった。そのため、名札が付いた制服を身に纏う私を見るのは初めてだろう。
私は青色の名札を指でさす。
「私、今日から高校3年生なんですよ。仁王セ・ン・パ・イ?」
わざとらしくそう言えば、仁王雅治はいよいよ停止した。まじまじと私の顔を覗き込んでいる。
「まだ信じられないんですか?ほら、これを見てください」
私は胸ポケットから生徒手帳を出して見せつけた。自身の顔写真の隣には『立海大附属高等学校 3年A組 名字名前』と記載されている。
「ふふんっ」
幼い顔が勝ち誇った笑みで満たされた。一方で仁王雅治は頭を掻きながら不服そうにつぶやいた。
「一本取られたのぅ……」
彼の顔にはしてやられたと書いてあるかのような表情だ。私の仁王雅治を騙す作戦は大成功である。
「おまん、これを狙っていたんじゃな」
「そうですよ。仁王“先輩”」
昨日のように先輩を主張して呼べば、腑に落ちたような顔をしてハッと笑った。
「やるのう、名字ちゃん」
「ふふっ。私、年上だよ? ちゃん付けタメ口なの?」
「もう名字ちゃんに敬語は使えんぜよ。慣れたけんのぅ。それに、名字ちゃんも俺にタメ口は変じゃ」
「そんなこと言われましても、あ、」
しまった、思わず敬語で返してしまった。仁王はくつくつと肩を揺らしてそんな私を笑う。それ、それだよ! 私が君を騙すに至った原因は。
「とにかく、こんな見た目だけど私は高校3年生だから、そこのとこよろしくね」
ビシッと指をさして私はその場を去った。それからテニス部内やその近辺で「仁王を騙した童顔の3年生」が話題になることは後に知る話だ。
数日後、校舎裏で私は仁王と顔を合わした。相変わらず敬語を使う気配はないが、それについてはもう諦めていた。
「名字ちゃん、何で俺を騙したんじゃ?」
「人を小馬鹿にしたような顔に腹が立って悪戯したくなったから」
「本当のこと言いんしゃい」
本当なんだけどなあ、と私は何を言っても信じてくれなさそうな仁王を見つめる。まあ、年齢を騙し続けていただけではなく、頻繁に嘘をついていたから何を言ったって嘘に聞こえるのだろう。これからはもうちょっと本当のこと教えてあげよう。とはいえ、騙して満足した今、仁王と関わる理由はないのだけど。
「本当にその理由なんだよ? 何なら、今聞かれた質問、全て偽りなく答えてあげる」
「ほう、前言撤回はさせんぜよ」
「どうぞ」
「名字ちゃんの知る俺の秘密は何じゃ?」
その質問を聞いて私は思いがけずにんまりとしてしまう。早速、仁王は信用できないという風に眉をひそめた。私は咳払いしながら答える。
「存在を覚えてもらうための嘘だったの。だから知らないよ」
「嘘じゃな」
「本当だもん」
「ちょっと腹を立てただけでここまでやるかのう。おまん、俺の気が引きたかったとかじゃないんか?」
そんな発想はなかったために、私は真顔で黙ってしまった。私には他校の彼氏がいるし、それなりに彼のことが好きだ。だから他の男に近づくために何かしようとは考えたことがなかった。
「それは自意識過剰というものだよ。確かに君はイケメンだけど、私の好みのタイプはちょっと違うかな」
不満そうに仁王は口を尖らせる。何に対してそんな顔をしているのか量りかねる。私は人差し指で猫の毛をそっと触る。あ、猫のこと言えばいいだけじゃん、とそこで気づく。
「まあ、猫のことバラされたくなかったし」
「バラさんと言ったじゃろ」
「それについてはあのとき言ったけど、確証なんてないじゃない? しかも詐欺師に言われてもなあ」
猫の首元をくすぐるように撫でる。すると、急に私の体は傾いた。ぼすっと私の背中は芝生に埋もれる。いつかのように押し倒されたようだ。
「私に色仕掛けは効かないよ」
「知っとる。だから気を引きたいからというのも可能性は低いと思うとった」
「じゃあ、何で聞いたの」
「反応が見たかっただけじゃ」
「じゃあ、今押し倒している理由は?」
仁王の口が弧を描く。ちらりちらりと視界を過ぎる結われた銀色の髪。また引っ張ってやろうかと思ったそのとき、顔が近づけられた。
「名前で呼んでもええか? 名前ちゃん」
吐息がかかる。私はどうにか冷静さを保った。無駄に色気がある彼の行く末が恐ろしい。
「もう呼んでるじゃん。で、尻尾が引かれる3秒前なんだけど?」
「クク、おまんは変なやつじゃのう」
仁王が離れた。私は体を起こして制服をはたく。
私に彼氏がいることを知っておいてこんなことをするのだな、仁王は。ということは今後も彼は今のようなことをしてくるかもしれない
私も生徒の一部で少しは名が知られちゃったようだし、誤解を生むような行動は控えたいところだ。あの彼に情報が届かないどうかなんて、100%言い切れることではない。絶対なんてこの世にはないのだ。
ということで、少し距離を置いてみるかな。
「あのさ、今みたいな行為、これからはやめてくれる? 不快だから」
仁王から笑みが消えた。少しのあいだ口を噤んで彼は立ち上がる。
ふうん無視ですか。
そう思った否、「そりゃすまんかったのう。気をつけるナリ」と素直に謝って歩いて行った。それはそれで気味が悪い。
翌日から猫のもとには朝に行くようにした。距離を置くとか置かないに関わらず、昼休みを使わないと本が読みきれないと思って、昼は読書をした。
朝練の途中に部活を抜け出すことはできないのか、仁王が朝の時間に校舎裏へ来ることはなかった。そのため、会わない日が二週間ほど続いた。
今週も長めの小説だったので私は昼休みに本を読み進めていた。ちなみに今週の本はダフネ・デュ・モーリア『レベッカ』だ。上下巻に分かれており、ようやく下巻の半分まできた。
読み進めてから15分ほど経った頃だろうか。教室のざわめきを感じて私は本から目を離した。きょろきょろと教室を見渡せば、みんなとある人物を見ているようだった。私は視線の先を追う。そこにいたのは仁王雅治。
「…………」
私は無言で彼を見つめたあと本に視線を戻した。すると仁王は私の隣までやってきて声をかけた。
「おまんに用があるんじゃけど」
さっと本が私の手から抜かれた。むっとしていたら仁王は本を閉じて机の上に置いた。
「ちと来てくれんか?」
聞いておきながらこちらの同意など元より得る気がないのか、私の腕を握るなり引っ張った。
「ねえ、なに? 教室じゃダメなの?」
「ダメじゃ」
「なんで」
仁王は答えなかった。そうして連れられてやってきたのは校舎裏のいつもの場所。
「最近、なんで来んのじゃ」
「朝に来てるけど」
「俺のこと避けとるじゃろ?」
「そんなことないよ。読まなくちゃならない本が長くて昼休みを使って読んでいるの」
まあ避けていないというのは嘘になる。しかし昼休みに本を読んでいるのは事実。先ほどだって読んでいたわけだし、彼に反論の余地などない。
「そんなにこないだ押し倒されたのが不快じゃったか? 名前で呼ばれるのも嫌かの?」
しゅん、と叱られた子犬みたいな顔をしている。そんな顔されたらちょっといじりたくなっちゃうなあ、なんて思う私はかなり性格が悪い。
「うん、ああいうのは嫌」
はっきり仁王の目を見て低めの声を突き付ける。仁王はさらに傷ついたような顔して少し俯いてしまった。こんなにもしおらしい姿を見るのは初めてで私は思わず噴き出した。
「っぷ!……ふっ、ふふ……!ごめん、確かに嫌だったけど、ふふっ、そ、そこまで避けて拒否するほどじゃない……!そんな顔しないで、あははっ」
突然笑い出した私を仁王は目を丸くして見ていたが、すぐに不機嫌そうに口を尖らせた。
「結局どっちなんじゃ」
「もうしないならそれでいいし、名前で呼んでくれてもいい。ただ、目立ちたくないし教室にはあんまり来てほしくないかな」
仁王が頷くのを私はさぞ楽しげに見ていたのだろう。
ああ、人をからかうのって面白い。これだから“いたずら”はやめられない。相手があの“詐欺師”だから尚更楽しいのかもしれないけど。
(~20180807)執筆