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「覚えてなさすぎだろぃ」
「覚えようと思っても覚えられないんだよね」
何の話かといえば日本史と世界史の話である。どうやら名前ちゃんは暗記系の科目が苦手らしく、丸井たちに問題を出されても全く答えられていなかった。
「え? ドラ、ヴィダ?誰それ」
「名前じゃねえよ。ドラヴィダ人っつー民族名っての? インダス文明を作ったらしいぜぃ」
「インダス文明はさすがに知ってるけど」
「俺もそれくらいなら知ってるッスよ!」
「えっ……私って世界史だと切原くんレベルなの? 帰ったら勉強しよう……」
「地味にひでぇ」
傷付いたような表情を浮かべた名前ちゃんの顔を見て赤也も傷付いたような顔をする。丸井はそれを見て笑った。
つーか丸井のやつ普通にタメ口で話して少し仲良くなっちょるし。
俺は心の隅でちょっと嫉妬した。丸井みたいな男はタイプじゃないと思うが、やっぱり他の男と話しとるのは気になる。
そのときに俺って結構、名前ちゃんのこと好きじゃよなって改めて気付く。彼氏がいる現実を考えると嫉妬よりも悲しさが先立って俺は辛くなった。
「名前ちゃんは捻くれとるのにそういうとこ素直じゃもんな」
俺も会話に入る。名前ちゃんは世界史の教科書を眺めながら言う。
「私はいつだって素直だよ」
「はあて、どうだか」
「疑うんだ?」
「疑うも何も、事実、名前ちゃんは嘘つきじゃもん」
「プリッ」
俺の真似をしてそっぽ向く名前ちゃんは可愛かった。
ピロンッ。
名前ちゃんのスマホが音を立てる。さっと画面を見た途端、すぐにラインを開いていた。名前ちゃんは俺だとすぐに返事しないのに、彼氏にはとても返事が早い。だから、相手はおそらく彼氏だ。
嬉しそうにスマホを操作する名前ちゃんを見て、また俺の心はズキズキと痛んだ。
仲直りしたんじゃろうなあ、とこのあいだ参謀の姿で聞いた話を思い出す。
あの時は、ちょうど柳生と入れ替わっていた時だった。偶然にも柳生(見た目は俺じゃけど)が廊下を歩いていたのでそれを利用すれば、あっさりと名前ちゃんは俺が柳だと信じたのである。
変装して驚かすつもりが「参謀だったら相談もするんじゃな」ってことを知って逆に傷ついた。でも、落ち込んでいる名前ちゃんはやっぱり普段見ないために可愛いらしかった。
それから9時前ごろに名前ちゃんは「兄が迎えに来てくれたから帰る」と言って店を出た。送ってやろうと思うとったのに、俺に家を知られるのは嫌なのかもしれない。
「名字先輩、何だかんだ教えてくれたッスね」
「ぶっちゃけ中学生くらいに見えっけど、やっぱアレでも俺らより年上なんだなー」
「ランドセル背負ったら何とか小学生くらいにも見えそうじゃないっすか?」
「分からなくもねえけど、さすがにそれは言い過ぎだろい」
名前ちゃんが帰るなり、こいつらはそんな会話を繰り広げた。ランドセルを背負ったところは少し見てみたい気もする。からかってやりたいからじゃけど。
部活停止期間に入って3日目、今日はどこに寄ることもなく真っ直ぐと帰宅した。玄関に入ってすぐに知らん奴の靴があることに気づいた。どうせ姉貴の彼氏じゃろ、と思っていたらちょうど階段から二人が降りてきた。
「あ、雅治」
姉貴の彼氏と鉢合わせしたら、いつもなら無言で頭を軽く下げるだけして立ち去る。だが、俺はそれができなかった。何故なら、名前ちゃんの彼氏だったからだ。
「おかえり、早いじゃん」
そう言った姉貴の後ろにいる男を俺はまじまじと見つめる。
ゲーセンのときの記憶が脳裏に蘇り、そいつと目の前の男が脳内で一致した。
「…………?」
不思議そうに男は首を傾げている。
ああ、絶対にそうじゃ。わりと前に一度見たとはいえ、はっきりと頭に残っとる。
「そいつ……」
「は? 彼氏だけど。あーこいつ弟の雅治」
男を睨んでいたら姉貴は不機嫌そうに俺を紹介した。俺はその男が口を開く前にリビングへ向かった。
すぐにバタンッと玄関の戸が閉まる音が聞こえてくる。
「嘘じゃろ……」
まさか名前ちゃんの彼氏が俺の姉貴と浮気しとるなんて。いや、姉貴も相手に彼女がおるなんて知らんかもしれん。しかし、あの頑固な姉貴に「彼氏には別の彼女がおる」なんて言っても聞き入れてくれないのは目に見えている。かといって見過ごすことも俺にはできない。
「はあ…………」
好きな子が彼氏と別れる可能性が出てきたというのに全くもって嬉しくない。名前ちゃんは彼氏のことを「ぼちぼち好き」としか言わないが、明らかに彼氏のことが大好きだ。そんな名前ちゃんに彼氏は浮気しとるだなんて誰が言えるんじゃ?
「やっぱ姉貴を説得するしかないんかのぉ……」
誰もいない空間にぽつりと響いた。
* テスト最終日の放課後、彼氏が学校まで迎えに来てくれた。校門前を立海生が多く過ぎ去る中、私服姿で茶色い煉瓦にもたれかかる彼は少しだけ目立っている。いつもなら「もう少し先で待っててよ」なんて言うが、久しぶりに会えたことが嬉しくて私はその言葉を飲み込んだ。
「お、名前、久しぶりだな」
私が近寄れば、すぐにスマホをしまって頭を撫でてくれた。
彼は昼ごはんを食べ損ねてお腹が空いているらしく、すぐ近くのファミレスに行くことにした。
そして、そのファミレスで駄弁を弄していたら気付けば18時を過ぎていた。早い夕飯を食べに来た客や部活帰りの学生で店の中が賑やかになってきまので、私たちは帰ることにする。
「ありがとう、ごちそうさま」
ドリンクバーとケーキを私は頼んだのだが、全て彼が出してくれたのだった。店のドアを開けながら彼が微笑む。ちょうどその時だ。
「あ! 名字先輩!」
店の前でこないだの4人組と出くわした。切原が私を指でさしている隣で丸井はちらっと彼氏の方を見ている。後ろにいる仁王は機嫌が悪いのか、仏頂面をしていた。
「名字先輩の彼氏ッスか?」
すると、彼が私の肩を引いて「そう」と答えた。まるで「俺の女だから」とでも言われている気分で私は嬉しくなった。あ、顔赤いかも。恥ずかしい。
そんな私に彼が問う。
「名前の友達?」
「馬鹿な後輩たちだよ」
「ええー! カワイイ後輩の間違いじゃないッスか?」
「そうそうカワイイ後輩だろぃ」
「自分で言うところが馬鹿なんだよ」
そう返せば彼は「楽しそうな後輩じゃん」とクスクス笑ってくれた。
その間、相変わらず仁王は口を些かへの字に曲げて怖い顔をしている。不機嫌ならファミレスなんかに来ないで帰ったらよかっただろうに。
翌日、職員室前の廊下で丸井と出会った。「よっ、名字先輩!」と声をかけてきたので私からも挨拶する。
「おはよう、丸井くん」
「あのさ、仁王が昨日っていうか2日前くらいから様子が変つーか、不機嫌つーか……とにかく何か知らねえ?」
「私もそれ気になってた。やっぱり昨日、不機嫌だったよね」
「んー名字先輩と何かあったわけじゃねえんだ」
ぷくーっとガムを膨らませて何かを考えている。
どうも私は、膨らんでいるガムを見ると悪戯心が芽生えて割ってやりたい衝動に駆られる。爪楊枝でもあればパンッと一思いに突いてやったのにな。まあ今は勘弁してやろう。
「そういえばテスト返ってきた?」
「んっ!」
思い出したようにガムを口に含んだ。
「数学は返ってきたんだよ、赤点免れたぜぃ! それどころか平均いったしマジ感謝!」
「それは良かったね」
「おう! 名字先輩のほうは?」
「憎き世界史が返ってきたよ」
いつも平均点に届くか届かないかだが、今回は無事に超えた。丸井たちと問題の出し合いをしたおかげかもしれない。一言くらいお礼を言っておいた。
「お互い様だぜ」
丸井はまたガムを膨らます。私はそれを見て、あることを思いついた。
明くる日の放課後に私は校舎裏に赴いた。仁王が先に来ており、溜息をつきながら猫ちゃんを撫でていた。不機嫌っていうか落ち込んでいるのか?
「におーくん?」
しょげた姿は仁王というよりも仁王くんと言った感じで、私はそのように呼びかけた。
「おー名前ちゃん」
「元気ないけど何かあった?」
「いーや、別に。何でもなかよ」
「お姉さんが聞いてあげようと思ったのに」
「その風貌でお姉さんはないじゃろ」
少し笑いながら私の頭をいつもみたいにワシワシ撫でた。
「失礼な。君より一年多く生きてるし、年上との付き合いも多いよ」
「そうじゃな」
「あ、そうだ、これあげる」
ポケットからガムを取り出して一枚差し出した。今朝買ったものだ。元より私はこれを彼に渡すために来たのである。
「ねえ、これで風船作って」
「仕方ないのぅ、ガムはあんま食わんが名前ちゃんのお願いなら聞いてやるぜよ」
巻かれてある紙を外し、仁王はガムを口に入れる。初めは固いそれも、クチャクチャと柔らかな音を立て始めた。程よく噛むと、仁王はガムの風船を作った。
「ん、」
どうじゃ? と言いたげに風船を指でさした。
「もっと大きいの」
そう言うと、仁王は一度膨らましたそれを口にしまってもう一度作った。だんだんと大きくなっていく風船。いいサイズだ。
「んっ?」
十分じゃろ? とでも思っていそうだ。私は頷くと、すかさずポケットからティッシュに挟んでおいた爪楊枝を取り出し、そのガムを突いた。
「っ!?」
パンッ!
割れたガムは仁王の顔に張り付く。
「あははははは!」
割れた瞬間の仁王の顔があまり面白くって私は笑いが止まらなかった。
仁王は不快そうに眉を顰めてガムを取っている。だが、ベタついてなかなか取れていない。
「何しよるんじゃ……」
「びっくりした?」
「そりゃのぅ……」
「こないだ会ったときから様子変だったから、笑わないなら驚けって思って」
「っはは、何つー言い分じゃ。そんなん思うんは名前ちゃんくらいぜよ……はは……っ!」
仁王にとっては面白かったのか、ガムを貼り付けた顔で口を開けて笑い始めた。その姿を見て私もさらに大声で笑う。
(~20180817)執筆