リレー小説 | ナノ
心の闇

ヴァイオリニストといえば大半の人が幼い頃からヴァイオリンを持たされ、物心つく前からヴァイオリンを習う。私も例にもれずその内の一人だった。日常的にヴァイオリンを弾き流行りの曲ではなくクラシックを聞いて育った。そんなヴァイオリン一色だった日常に変化をもたらしたのは小学6年の時だ。友達が出るからとその子の通っていたスクールの大会を見に行った。その時一人の同い年の男の子のテニスに私は惹かれた。今までヴァイオリンしか見てこなかったからテニスに関しては詳しくなかったけど、彼の球を打つ時のフォームがすごく綺麗で感動した。けれど何より私の心に響いたのは、球を返した時のインパクト音だった。彼の創り出したその音は今まで聴いたどんな名曲よりも素晴らしく聞こえていつまでも聞いていたいと思わせた。たった1試合で私は彼のファンになった。

それから何度か試合を見に行こうと思ったけれど何の呪いかコンクールの日程に全てかぶってしまい結局行けず終いになってしまった。中学は近所に私立立海大付附属中というテニスの強豪校があり、なんの確証もないけれど彼はそこに行くだろうと思い私も立海を希望した。けれど、昔から音楽に関してうるさかった母は私を東京の音大附属に行きたがらせた。せめて立海が音楽に少しでも通じていれば抗議もできたけれど、そんなに都合よくいく訳もなく私は東京の音大附属に進学した。ここで私は彼の名前を知らないことに気がつき、同じ中学に言っても意味がなかったなと一人落ち込んだ。

母の思惑通りの道を進みヴァイオリン一筋で生きてきた私。当たり前なのだと、当然なのだと思い込むことで目を反らしてきた。自分の人生ではなく母の書いたシナリオの上の人生なのだということから。それでも目を反らせなくなった高1の春。私はコンクールで5位という結果を出した。母はそれが気に入らなく、今まで以上に私を叱りつけた。

「あんな酷い演奏初めて聴いたわ!!いつもの貴女ならもっと上手に演奏できたでしょう?!私の顔に泥を塗らないでちょうだい!!」

一言、最後の一言がダメだった。今までどれだけ怒られても私の為だと思うことで耐えられた。全ては私の為なのだという呪文のような母の言葉を盲目的に信じられた。けれど、この時に聞いた母の本音。それは絶妙なバランスで保たれていたトランプタワーにそよ風程度の風が当たった程の衝撃だったけれど、それだけで崩れ去ってしまうトランプのように弱い私の心を砕くのには十分すぎるものだった。
たしかに今回のコンクールはいつも通り演奏できたとは言い難い。そのことに関して私に反論の余地はない。練習に手を抜いただとか、体調が悪かったとかそういうわけではなくていわば気持ち的な理由だった。

あの日の朝私はいつもより遅く会場に入り控え室に向かっていた。その時にある家族を見た。父親と母親、それに子供が2人。1人は父親譲りなのかストレートの藍色の髪を持つ少女。少女の手には彼女の体格にあったサイズのヴァイオリン。そしてもう1人の子供に目を向けたとき私は驚愕した。4年前のあの彼が成長してそこにいた。スラッとした体格にあの時からあまり変化のない藍色のウェーブのかかった綺麗な髪。その場にじっと立ち尽くしていると彼と目があった。私は肩を震わせただけで目を反らすことも、その場を離れることもできなかった。彼は小さく微笑んでから妹であろう少女に声をかけて客席に繋がる扉へと入っていった。
動揺を落ち着かせることなく演奏に入った私は散々な演奏をしてしまい、彼にも不格好な所を見せてしまった。その後、家に帰りその日は疲れたと部屋に閉じこもって誰とも、母とも話さなかった。いや、話したくなかった。

翌日部屋から出てきた私を待ち受けていたのは母の叱責だった。長い間叱られた末のあの言葉。私は耐えられなくて初めて母に反抗した。

「ずっとそう思ってたの!?今までの私の頑張りは全部、全部自分の世間体の為だって!!私のやってきたことは全部お母さんが決めたこと。それでも私の為なんだってって思って来たのに。もう、信じられない!!」

そこまで言って私は家を飛び出した。皮肉にもヴァイオリンを持って。何故持ってきたのかなんてわからない。ただ必死だったから無意識のうちに手にとって持ってきていた。
家からしばらく走ったところにある小さな公園までやってきた。この公園は立海の目と鼻の先でなんだか彼に会えそうな気がした。
彼のことを頭の隅に追いやって私はヴァイオリンをケースから取り出した。昨日のリベンジというわけではないが弾いてみようとふと思い、ヴァイオリンを構えて背筋を伸ばし、弓を引いた。そこから昨日の自由曲のツィゴイネルワイゼンが始まる

はずだった

イメージしていた音は聞こえてこなかった、弾けなかったのだ。手が震えて腕が動かない。なんで、と思うと同時に頭は冷静だった。こうなることを私は知っている。同じ教室の中でそういう子は沢山見てきた。

『クランプ』

精神的にな理由によりまともな演奏ができなくなること。スポーツでは『イップス』と呼ばれる症状。理解した途端私は恐怖に襲われた。本格的に弾けなくなったとなるとあの母がなんていうか。嫌味を言われるのは必須だろう。その思いがさらに私の腕を動かなくさせた。

「どうしたの?」
「・・・・・・・・えっ」

弓を構えたまま動かないでいると後ろから声をかけられた。知らない声で、声変わりしたんだろうけれどまだ少し高い男の人の声。誰だろうと後ろを振り向けば彼がいた。立海の制服を着て肩にはテニスバッグをかけていた。彼の後ろには数人の男子がいて皆彼と似たような格好で立っていた。その中で一人、目を引いた人物がいた。赤い髪の一番背の低い子。彼の首には誰かに絞められた様な人工的な痣があった。くっきりとしていたけれど、私が見てても気にする素振りを見せないから後ろめたいものではないのかもしれない。私の知ったことではないけれど。

「・・・何かご用ですか」

私は赤髪の彼から一番前に立っていた藍色の髪の彼に視線を移して、ヴァイオリンを下げると彼に聞いた。先ほどのどうしたのという質問に答えていないし失礼かもしれないけれど、何も用のない人に構っていられるほど私の状況は良くない。

「君が・・・ヴァイオリンを構えているのが見えたから。・・・弾かないの?」

弾かないんじゃない、弾けないんだ。腕が鉛のように重くて今は動かすことさえ億劫なのだから。黙り込んで、再び質問に答えない私を静かに待つ彼。会いたいとずっと思ってきた彼なのに、今は早くここから去って欲しい。
彼ではなく彼の友人と思われる赤い髪の子がしびれを切らしたらしく「幸村君」と彼の名前を呼んだ。それに対して藍色の髪の彼・・・基、幸村君は先に帰っていてくれと返事をした。
幸村君はまだここにいるらしい。幸村君の友人達は小さく挨拶をしてから帰っていき、公園には私と幸村君だけになった。

「・・・もう一度聞いてもいいかな。ヴァイオリン、弾かないの?」
「・・・弾かないんじゃないの。弾けないんだよ」

ここで私は初めて幸村君と会話をした。幸村君は不思議そうな顔をしていた。そりゃあそうだろう。彼から見たら私は弾けないわけじゃない。昨日どんな演奏であれ、弾いていたのだから。

「弾けない?」
「うん・・・構えるまではできるけどそこから弓が、腕が動かないの」

普通なら初対面に近い人にこんなことを言われても困るだけだろう。けれど幸村君は困った顔も嫌がる顔もせずに、私を近くのベンチまで連れて行き話を聞いてくれた。昨日の演奏で母に怒られたこと、今までの頑張りを否定されたと思い家を飛び出してきたこと、公園でもう一度昨日の曲を弾こうと思ったら弾けなかったこと。ぽつぽつと話すことに時々相槌を入れながら幸村君は聞いていた。

「イップス・・・音楽ではクランプって言うんだっけ。きっとそれだね」
「たぶん、そう・・・」

私の話を聞いたあとで幸村君はイップスだと言った。テニスプレイヤーだからイップスを知っていても不思議ではないと思うけれどまさかクランプと呼ぶことまで知っていたとは驚きだ。すると幸村君がまるで私の心を読んだかのように「妹が、前に一回クランプになってしばらくヴァイオリンが弾けなかったんだ」と言った。絶妙なタイミングで言われたので驚いて彼を見ると、彼は小さく笑うだけだった。

「イップスか・・・俺なにか縁でもあるのかな」
「え?」
「あぁ、俺ね。五感を奪うテニスをするから」
「え・・・?五感を?」

五感とは触覚、嗅覚、味覚、視覚、聴覚の五感のことだろうか。五感は人が物事をする上で必要となるものであり、おいそれと奪えるものではないと思う。
意味がわからずに呆けていると、幸村君が自身のプレースタイルについて詳しく話してくれた。ボールを的確に返すことによって相手がだんだんとテニスをしたくなくなり、精神的苦痛を感じ見ることを否定し、打ち返すとこを否定して視覚、触覚を失っていくことだそうだ。イップスというのは症状が似ているからと周りがそういうらしい。

「す、すごいね・・・」
「ふふっ、そうかい?・・・それでね、俺ってイップスを操れるんだよ」
「へ?」
「イップスをかけることもできるし、治すこともできるんだよ」

「だからね、君のイップスも俺が治してあげる」そう言って幸村君は悪戯を思いついた子供のように笑った。それから何をするのかと思ったら彼は私の目を手で塞ぎ、私の肩に何かをかけた。

「俺は4年前あるコンクールを妹と一緒に見に行ったんだ」
「え・・・あのっ」
「ごめんね、聞いてくれるかな。・・・そのコンクールでね、1人の女の子の演奏に引き込まれたんだ。俺と同い年の女の子で、目立つドレスを着ていたわけでもなくて、独創的な弾き方だったわけでもない。ただ普通に、模範的に弾いていたけどその中に確かに彼女があった。そんな彼女が当時の俺には羨ましく写ったんだ。五感を奪うという形でしかテニスで自分を主張できない俺とは違うあの子が羨ましかった。俺はすぐにその子のファンになったよ」
「・・・・・・」

静かに幸村君の話を聞く私。そのコンクールの女の子が誰かなんてわからないほど私は鈍感ではない。自惚れかもしれないけれどきっとその子は私。模範的な中に自己を主張する、それはよく先生に評価の時に言われたことだった。4年前のどのコンクールかはわからないけれどきっと私だ。

「その子を昨日、妹が出たコンクールの会場で見てとても嬉しかったよ。けれど彼女の演奏の調子が可笑しかったんだ。俺は幻滅とかそういうのじゃなくて彼女をすごく心配したよ。・・・笑っちゃうだろ?話したこともないただの一ファンが勝手に心配して。これじゃあいつも学校で騒いでいる女子と思考は変わらないなって思ったよ。そして今日、運良く俺は学校の近くのこの公園でその子に会えた」

やっぱり私だ。彼がこの公園で今日会い、さらに昨日の演奏で調子悪かった人物なんて滅多にいるものじゃない。私だと確信したら、嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。ファンだった幸村君がまさか自分のファンだったとは思わなかったし、心配してもらえた事が嬉しい反面照れくさくて恥ずかしかった。

「ここまで言えばわかるよね。・・・名字名前さん。俺は君の演奏がもう一度聴きたいな。お母さんの為とかコンクールの為じゃなくて、俺の為に弾いてくれませんか?」

手を退けられた私の目は夕日の明るさにまだ慣れていなくてぼやけてしか見えなかったけれど幸村君は笑っている気がして、はっきりしてちゃんと見えた幸村君はやっぱり笑っていた。私の肩にさっきかけられたものは芥子色のジャージで立海テニス部のレギュラージャージだった。私は幸村君の申し出に少し悩んでから首を縦に振った。今ならいい曲が弾けそうな気がする。幸村君に勇気を貰った今なら。

もう一度構えたヴァイオリンはさっきとは打って変わってとても軽く感じられた。腕も軽くて鉛のようだったさっきまでが嘘のようだ。それから私は昨日の為に練習してきたツィゴイネルワイゼンではなく自分が一番好きなカルメン幻想曲を弾き始めた。全部で12分のこの曲をフルで弾くわけにもいかないから自分が特に気に入っているフレーズを演奏する。3分ほどで終わった小さなコンサート。曲を聴く観客は一人だけ、弾き手も一人。たった二人だけのコンサートは3分ほどで幕を閉じたけれど私にとってはどのコンサートよりも長く感じた。

「・・・弾けたね。すっごく良かったよ。でも、昨日の曲じゃなかったよね・・・?」
「うん、さっき弾いたのは私が一番好きな曲。なんとなく、幸村君にはこの曲を聴いて欲しかったの」

幸村君の言葉でヴァイオリンを弾く勇気が持てた、またヴァイオリンを弾くことができた。感謝してもしきれない。お礼を兼ねて私の一番好きな曲をプレゼントした。そう伝えると幸村君は照れくさそうに笑って「名字さんが頑張ったんだよ」と言った。
その笑顔に私の心にあった闇は綺麗に晴れていった。


精市君と初めて会話した日から一ヶ月と少し、今日は精市君のIH決勝を見に来ていた。4年前の大会の決勝を見に行ったのと同じように、二回目を見るなら決勝戦がいいなと言ったところ精市君は

「じゃあIHの決勝戦においで。俺まで試合が回ってくるかはわからないけど」

と言った。ちなみにこの会話はあの日から一週間後の話で予選も始まっていない時だった。本当に行けるのか少し不安に思っていたけれど精市君はあっさり決勝まで勝ち進んだ。決勝の相手は氷帝学園という東京の学校で、精市君曰く中学の頃からの知り合いが多くいてかなりの猛者だという。それでも精市君の顔には不安の色なんて無くて勝つことしか考えていないようだった。

「あ、精市君の試合だ」

精市はS3と珍しいタイミングで出てきて少し驚く。一般の観客席の最前列からコートに立つ精市君を見ていたら突然彼がこっちにやってきて肩にかけていたジャージを私の肩にかけた。

「見ていてよ、名前。絶対俺が勝つから」


執筆者:蒼依
蒼依はクラシックやヴァイオリンについて全く知識がありません。パソコンで調べた限りで書かせていただきました。イップスやクランプに関しても同じです。
ここでのクランプは職業性クランプのことで日本語では職業痙攣と言われるものを指します。


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