▼ 愛で次元を越えろ!
「さ、パソコンー」
仕事から帰宅した彼女がまず一番にすることはPCの電源を入れることだ。そして冷蔵庫を開けてビールを一本取り出し、缶の蓋を開ける。ごくごくと勢いよく飲んで一言。
「ぷは〜っ!今日もってか一週間お疲れ様だよ、私!」
一人で言って気分が上がっているなど寂しいにもほどがあるが、この女、苗字名前は全く気にしてはいない。むしろPCのログインパスワードを軽快に打って浮かれていた。
「うふ…うふふふ…蓮二、こんばんは!」
デスクトップを見てにやけて挨拶をするなど、もはや怪しい以外の何者でもないが、名前にとってデスクトップの彼はそれ程までに愛しい存在なのである。しかも、金曜日の夜ということで気分はかなり舞い上がっていた。因みに蓮二とは、本名は柳蓮二といい、漫画・テニスの王子様(テニプリ)のキャラクターである。名前はこれまでにテニプリを約10年間は愛し続けており、部屋にはグッズから画像まで至る所に飾られている。主に柳蓮二だが。
「明日は休みだし、蓮二をたくさん見られるわ!」
すると、携帯から演歌が流れ始めた。これは電話の着メロで、柳のキャラクターソングの“俺の日本海”であり、ここからも大好きぶりが把握できる。
ある程度、曲を聞いてから電話に出た名前の顔色が変わった。
「え、あ、はい、緊急職員会議ですか…いえ、わかりました…はい、失礼します」
ぽちっとボタンを押して携帯を勢いよく投げ捨てた。
「ほわたああああっ!職員会議とか知るかぼけぇぇっいいいっ!」
職員会議…そう、名前は教師だ。しかも全国でもなかなか有名な県立高校の新米教師で、先程から阿呆で変態のような行動しか見受けられないが、頭だけはとても賢いのである。全国の賢者がこうでないことを祈りたい。
「しまった。大切な携帯が…怒りのあまりに…」
あれだけ力強く投げておいて、大切と口にするのは些かおかしい気もするが、拾い上げて念入りに確認しているところを見れば強ち間違いではないのかもしれない。
「蓮二の画像がたくさん入っているからね」
その場にいたら、なるほどと口にするか、なら投げるなよと突っ込みを入れたくなりそうだ。
それから名前はPCに向かってカタカタと何かを打ち始めた。それから約一時間後、手を広げて叫んだ。
「うおーっ!!書き終えたぜぃ!」
書き終えたというのは小説のことだ。決して本を出しているわけではなく、二次創作サイトで夢小説と呼ばれるものを書いて投稿しているだけだ。色んなキャラクターの日常の何気ない話から刺激的な内容まで色んな系統を揃えたサイトで、名前自身も人気があると誇れるくらいの訪問人数だ。まあ、取り柄が勉強なだけあって国語も得意だが、どちらかと言えば理系の人間だ。まあ、文系とそこまで大差はないので気にはしていない。
「むふふ、ようやく告白シーンまで持ってこられたわ!」
そんな名前の頭は中学の頃からずっとキャラとの恋愛劇を妄想しては文にするということをしてきたので、三次元の男に興味が一切なかった。当の本人は全くそっちのけだが、いい加減に彼氏の一人くらい作れと思う。
それからもサイトの更新やテニプリの動画を見たりして時を過ごした。
◇◆◇◆◇◆
「彼らが小さい」
そう口にしたのは、面倒な職員会議がようやく終わり、帰宅したときのことだった。
「蓮二を大きく見たい!ならばディスプレイを大きくするしかない!待っとれええええ!!!」
要は名前のPCのディスプレイが小さいあまりにキャラクターがよく見えないのが不満で、大きい物を用意して大きくなった彼らの姿を見物したいというわけだ。
早速、鞄と財布を手にすると、PCの電源や電気も全て付けっぱなしにしてダッシュで家を出た。そんなに急がなくても逃げないだろうに。
そして大きなディスプレイを手に無事に家に付くと、そそくさに繋ぎ始めた。因みに、テレビと兼用するために32インチのものを購入した。PCにしてはかなりのサイズだがテレビにすれば普通の大きさだ。
「やっほおおおおいい!!」
ようやく繋ぎ終え、ディスプレイに映し出された蓮二を見て名前は歓喜の声を上げた。またニヤニヤと笑いながらこんばんはと挨拶をしてネットを開くとそこにはいつも表示されるはずのヤホーはなく、真っ白の画面だった。
「ん?え、まさか止まった?早くね?」
じーっと画面を見ていると、"あなたの願いは何ですか?"という文字が浮かび上がった。
「そりゃ〜私の願いって言ったら蓮二と会うとか…うふふふふ……ふっ!?うわっ!ええっ、嘘!?………でも、そんなことあるはずないよねー」
何故、急に驚いたかと言えば"分かりました。叶えましょう"と表示されたからだ。もし、これが本当ならば喜ぶどころでは済まないのだろうが、有り得ない話なのでなったらいいね、などと軽い気持ちで名前はいた。あんなことが起こるとは知らずに。
◇◆◇◆◇◆
あの不思議な一件から数日後のことだった。いつもの如く名前は帰宅してからPCをしていると、画面が急に黒くなった。今回こそは本当に止まってしまったのかと思い強制シャットダウンをしようとしたときだ。薄らと光り始めて渦のような波紋が出来た。
「…何だこれ…何とか珍百景に応募した方がいいかしら……」
しばらく見ているとずいっと顔が飛び出してきた。
「うぎゃああああああああああ!!」
あまりにも急なことに叫び声をあげて、もう一度画面を見ればそこにいたのは・・・
「れ、蓮二…ってえええええええええ!?」
またもや叫んでしまい、手で口元を押さえた。いかんいかん、近所迷惑もいいところだ。しかしながら、目の前に柳蓮二がいるのだから驚かないわけが無い。
「会いたかった…」
「……………」
画面から出てきたことにまず何も突っ込まないのもどうかと思うが、名前の頭は抱きつきたいという思いでいっぱいなのである。
「ここは……」
「さあ、とりあえず中に入って入って〜」
柳が訝しげに首を傾げたのは言うまでも無い。
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