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朝食を食べ終え、私室で本を読みながら過ごしていると、小さくドアをノックする音がした。ドアを開ければ、そこには普段よりもお洒落をした名前が立っている。

「何処か行くのか」
「レベッカのとこ、一緒にお手伝いしに行こうって」

レベッカ……本人とはまだ顔を合わせたことは無いのだが、話を聞くに此処での名前の数少ない友人の一人だった。お手伝いとは、この世界に住む人の「仕事をしたい」という欲望を叶える施設での作業のことを指す。名前はここに来てから長いため、冥府の運営に関する仕事を任されることも多いようだった。勿論その仕事に対する報酬は無いため、自分はあまり行こうと思えないものだが。

「じゃあ、お留守番お願いね。夕方には戻ってくるから」
「ああ、気を付けて」
「うん!」

いつものように、元気に出かけていく名前を見送った。それから、視線を本に戻して彼女が帰ってくる時を待った。また図書館で適当な本を借りてきてくれるだろうか、なんて考えながら、ときどきコーヒーを口に運びつつページを捲っていた。



昼も夜も空の色が変わらないこの世界にも現世と同じからくり時計が使われており、それにより時間が決定されている。いくら体力が減らない死後の世界の住人でも、夕方になればどの仕事も終わるはずだが、名前はまだ帰らない。レベッカとやらの家でお茶でもしているのだろうか、それでもこんな時間まで帰って来ないとは珍しい。何かに巻き込まれていなければ良いのだが、あいにくこの街の地理にはまだ詳しくなければ名前が向かった仕事場の場所も分からない。彼女の身を案じながらも、家で待つことしかできなかった。
時計の針が「9」を指した頃、玄関のドアが小さな音を立てて開いた。いつも聞こえるはずの元気のよい「ただいま」の声は、今日は全く聞こえない。何かあったのかと玄関へ向かうと、そこには俯きながら小さく鼻をすする名前の姿があった。

「……」
「名前」

様子がおかしい。泣いているのだろうか。名前はこちらを見向きもせずに、玄関の扉を閉めるなりいそいそと自室へ戻って行った。心配になり、彼女を追いかけて肩を叩いてみたものの、それに対しても無反応。

「どうした?」
「……」
「おい」

名前のこういった姿を見るのは初めてで、放っておくこともできずに結局彼女の部屋まで来てしまった。部屋に入るなりソファに転がり込んだ名前の肩をゆっくりと掴んで、顔をこちらに向かせた。目の周りは赤く腫れ、顔はぐしやっと歪められている。彼女らしくないその表情に、手先が震えるほど動揺した。

「どうして泣いている」
「なんでもない」
「……言いたくないなら言わなくても良い」

本音を言えば、言って欲しかった。二人きりの此処で、名前の感情の捌け口は自分しかいない。名前の手が、肩を掴む自分の手を掴んだ。手を離して欲しいと言う意思表示かとも思ったが、その考えとは裏腹に、彼女の手はゆっくりとこちらに伸びてきて、縋るように袖を掴んだ。小さな力で、それでもたしかにきゅっと引っ張られて、目の前にいる彼女がとてもか弱く今にもこわれてしまいそうに見えて。気が付けば小さな名前の身体に腕を回していた。

「あったかい……ホメロス、身体大きくなったね。身長……伸びてるし、手も硬くなった、顔も少しだけ意地悪くなった」
「……」

消えてしまいそうな声が耳を掠める。放っておいて欲しかったのなら、お望み通り放っておくことだってできたのに。それでも今この場所には名前が頼ることができる人は自分しかいない……そう思うと、どうしても一人にすることなどできなかった。お互いの体温は冷たく、互いの熱は一切感じられない。それでも名前は「あったかい」と口にした。まったくおかしな話だが、自分もまた彼女が感じるように凍った心が融けるような感覚に陥った。
気を紛らわせるように髪をさらりと指先で撫でれば、擽ったいとでも言うように小さく首を振られる。どのくらいの時間寄り添っていたのだろうか、どちらからともなくゆっくりと身体を離した。名前は落ち着いたかと思えば、この状況にいささか戸惑っているような表情をする。それから、こちらを見上げると覚悟を決めたかのようにごくりと息を飲んだ。

「話しても、大丈夫?」
「ああ。ゆっくりでいい」
「……レベッカの家に、手紙が来た」
「手紙……?」

その単語自体は初めて耳にするものだったが、自分の中ではその単語がこの世界を取り巻く真実にまた一歩近づくものだと言うことを本能で感じ取っていた。聞き返せば、暫くの間を置いたあと、名前は震えを飲み込むように言葉を続ける。

手紙とは冥府の役人から配達される重要文書。転生の順番が回ってくれば、役人がその旨を伝える手紙を届けに来る。手紙が届いてしまえば、もうこの冥府に居続けることは出来ず、もう一度冥府の入り口に戻り新しい命として生まれ変わることになる。
つまりレベッカの家に手紙が来たということ即ちそれは、彼女との別れを示している。

どうもこの冥府に住む者のほとんどが、転生を待つ者のようだ。魂が冥府の入り口に辿り着けば、そこで「天国に行く」か「転生をする」かの二択を迫られる。しかし、現世で罪を犯した者は天国に行くことができず、この冥府で転生の順番を待つ選択しか与えられない。つまりこの冥府にいる者は前世で罪を犯した人物か、名前のようにあえて天国に行かない者の二種類である。そうなれば、ここに住んでいる以上、必ず別れは訪れる。名前が言っていたのはそういうことだった。
涙を零していた名前は、話を終えると袖で目を拭った。そして泣き腫らした顔で、悲哀を帯びながらも無理矢理笑ってみせた。

「この世界に居れば必ず別れは訪れるって、分かってたのにな……。でも、こんなんじゃダメだよね。友達の門出だもん、祝ってあげなくちゃね。現世で死を救済だと考える概念があるように、この世界にも転生を幸せなことだとする考え方もあるんだ。でも、長い別れは……やっぱ寂しい」
「……」
「ねえ、私怖いんだ。いつかホメロスのところにも手紙がくる。明日なのか、来年なのか、それすらも分からない。ただ死んだ地上の命と新しく産まれる命の均衡が保たれるように選ばれる。こんなに怖いことって無いでしょう?」

こんなにも悲しむくらい辛いのに、なぜ名前はここに居るのか。天国に行くことができるならば、なぜ行こうとしない?彼女は現世で罪を犯していないはず、その証拠に今の今まで彼女のところに手紙はやって来ていない。ならいったいどうして、この場所でいつか別れる人に向かって手を伸ばしているのか。

「私は天国に行っても一人きり、ならばここで現世を見ていたかった……私が置いてきた時間を、眺めるのが好きだった。こんなに苦しいことがあると知りながら、もうずっと」

その答えは問わずとも返ってきた。彼女が吐き出す言葉が、心の中の疑問を埋めてゆく。

「……あの日、なぜ俺に手を伸ばした。そ知らぬふりをしていれば傷つかずに済んだのではないか」
「ねえ、もうホメロスの中では私は過去の記憶の一部かもしれないけれど、あの時死んだ私にとっては、共に過ごすあなたたちが全てだったの。声を掛けないなんて、できるわけないじゃない……」

名前は冥府にやってきたあの時から、まだ現世に未練を残したまま。志半ばで死んだあの時、生きるべき時間が絶たれたあの時変わらずに、名前はまだ現世を見続けている。「生きる」行為など必要ないこの場所で、理想の世界の真似事をして仮想の日常の中で十数年を過ごしている。
慰める言葉すら見つからないほど、辛く重い現実だった。せめてしてやれることがあればいいものの、今の自分はかえって彼女を苦しませるだけの存在だということに失望してしまう。せめて彼女を呪縛から解き放つ方法があったのなら、それを己が熟すことができたなら、どれほど良かったことだろう。

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