真夜中のバンデルフォン地方は静寂に包まれていた。時折この地方に生息するキラーパンサーの遠吠えと、麦畑を海風が撫でる音が聞こえるが、近隣に山も川も無いものだから、夜行性の猛禽類や蛙の声が耳に入るデルカダールよりかはよほど静かだった。特に防音に特化したこの煉瓦造りの小屋の中では、就寝中に酷く身動ぎする者も居なかったものだから、浅い眠りの中で聞き慣れない衣擦れのような音を拾ってしまった私は、その不自然さに徐々にその意識を覚醒させた。 目を覚ませば、すぐ横に人の気配がした。自分のまわりに纏わりつく、湿気を含んだやけに生暖かい温度。体重をかけられて斜めに傾くベッド。明らかに、目の前に誰かが居る。そのことに気づき、暫く様子を見るために眠るフリをした。 幽かに香る上品な匂いはホメロスさまが愛用している香油のものであったが、彼が私のベッドスペースにやってくることなど此処に根を下ろしてから一度も無かったものだから、「彼である」と上手く確信できないでいた。普段ならば、今でも布一枚隔てた向こう側のベッドでお休みになられているはずで、こんな夜中に私のベッドに来る用事など何も無いだろうに。ならば、目の前に居るのは一体誰なのか。昨日から続いている体調の悪さのせいで悪い幻でも見ているのだろうかとも思ったが、それにしてはやけに現実的だった。ホメロスさまと似た匂いを醸し出して、私を誑かす悪戯好きの魔物か、はたまたバンデルフォン王国が滅びた時に、無念のまま魂の行き場を失った騎士の亡霊か。そんなことを考えているとまるで本当に嫌な幻を見ているような気分になって、早くこの靄がかった気持ちから解放されたいと、相手に悟られぬように薄らと目を開いた。 古い曇りガラスから差し込む月光に照らされていたのは、間違いなくホメロスさまの顔だった。その眼は私の顔を覗き込んだまま、一瞬たりとも逸らされることはない。私の顔を見て何かを考え込んでいるのだろうか、まさか私を邪険に思って亡き者にしようとしているのではないかという邪推が頭を過って、再びきつく目を閉じた。いっそこのまま眠りに落ちて、何も見なかったことにしたいと思ったが、そう意識すれば意識するほど眠気は醒めていく一方で。さらに、体調の悪さと緊張で眠っている時よりも確実に呼吸が浅いと認識できていたものだから、このままでは狸寝入りがバレてしまうかもしれないと、全身に緊張が走る。そして、呼吸だけに意識を取られてほんの一瞬、唾をごくりと飲み込んだ瞬間に、喉に冷たい体温がひゅっと走ったものだから、驚いて思わず目を開けてしまった。 「あ……」 「やはり、目を覚ましていたのか」 指先を喉元にあてがったまま、ホメロスさまは表情を変えずにそう呟いた。片手をベッドの上に置いて、まるで私の顔を覗き込むような体勢はそのままで。垂れた金髪はいつものように結ばれておらず、彼の色白な肌と透き通るような金色の瞳も相俟って、怖いものを見ているかのような錯覚に陥る。 「あの、このような時間にどういった御用で……」 「随分と魘されていたな」 「……煩かった、ですか?すみません」 「いや」 身動きも取れないこの状況では、逃げようにも逃げられない。それ以前にホメロスさまの意図が分からず、何か答えて欲しいとその目を見つめるも、彼からその言葉に対する返事が呟かれることはなかった。身体に触れていた指先がするりと離れて、そうしてようやくホメロスさまは私の上から退いた。何も言わないまま、二人を隔てる壁のその向こう側に消えたかと思えば、藁が小さく軋んだ音が耳に入った。 私はといえば、未だに夢うつつのまま、指先ひとつ動かせずに固まっていた。ホメロスさまは本当に私を殺そうとしていたのだろうか、それならば何故私の目が覚めるまで待っていたのだろう。他に何か別な理由があるのかとも考えてみたが、思いつくものは何も無くて。結局、悶々とした気持ちを抱えたまま、ホメロスさまのベッドがあるほうへ背中を向けるように寝返りを打った。 ** はあ、と溜息が出た。今日は溜息を吐いてばかりだ。原因は勿論、昨夜のホメロスさまの行動である。目が覚めれば、すでにホメロスさまは家を出ていて、「昨日はどうしたのか」と聞くことすらできなかった。モヤモヤとした気持ちを抱えて城にやって来たのは良いものの、気がつけば上の空で仕事は手付かず、こうして昨日の彼を思い返しては深く息を吐く。もう何度目になるだろう。 「あの……グレイグさま」 「ん?どうした」 「少しご相談が」 軍議が終了し、人が疎らになったところで、書類を見直していたグレイグさまに声を掛けた。周りに聞こえないように「ホメロスさまのことなのですが」と耳打ちすれば、暫く考え込んだ後「場所を変えよう」と言われ、やって来たのはグレイグさまの私室。中で掃除をしていた侍女たちには席を外して貰い、二人きりになると、グレイグさまに向き合って口を開いた。 「お仕事、中断させてすみません」 「良い……何があった」 「その……」 この城で事情を知る者はグレイグさまと姫さまのみ……ホメロスさまに関しての件ならば幼馴染である彼に聞いた方が判るだろうと思い、意を決して昨晩あったことを話した。あれは私の幻覚ではない、確かに、目が覚めた時に、私のベッドの上に長い金髪が落ちていたのだから、ホメロスさまは間違いなく私のところへやって来ていたのだ。彼が意味のない行動をするとは思えなくて、だがその理由を考えても判らなくて。 「ですから、ホメロスさまはもしかしたら私のことを殺そうとしていたのではないかと不安になりまして……帰ったら聞こうかと思ったのですが、もし出て行けと言われたらと思うと怖くて」 「……」 「あの、如何されました?」 「いや……ああ、何でもない」 ありのままを説明すれば、グレイグさまは最初こそは真剣な顔をされていたものの、途中から目を泳がせたり、額を手で覆ったりと奇妙な動作をし始めたものだから、具合でも悪いのかと思い問いかければ、歯切れの悪い答えが返ってきた。 「そうだな……これは俺よりも、お前の侍女に聞いた方が良いのではないか」 「しかし、侍女たちにはホメロスさまのことを明かすわけにはいきませんし」 「名前を伏せれば問題あるまい……そもそも、お前の侍女のことだろうから全て察しているだろうがな」 「……そう、ですか」 グレイグさまから答えを得ることができなかったことを残念に思えば、それが顔に出ていたらしく、小さな声で謝られた。「侍女に聞けば良い」と言われるのも疑ってしまうが、そこまで言うならば、侍女も望むような答えをくれるのだろうか。 「あとは、そうだな。殺されることはないと思うぞ」 「はあ……」 肩を落としながら去ろうとすれば、グレイグさまはそう声をかけられたのだが、含みを持つようなその真髄を教えて貰えなかったことに対して少しもやもやした感情を抱きながらその場を去った。 私室に戻れば、侍女が書物の整頓をしていた。ホメロスさまが生存していることは機密であり、更にグレイグさまとマルティナ姫以外は私たちが何処に住んでいるのかすら知らない。そのような状況で、侍女へと相談を持ちかけるのも少し気が引けたが……あれから二年の時が経っていること、何より私が侍女を信頼していることもあって、話を聞いて貰おうと決意した。 「お茶と焼き菓子を二人分持って来て欲しいのだけど」 「どなたかいらっしゃるんですか?」 「ううん、少しカノに相談があって。頼まれてくれる?」 そう言うと、侍女は目を輝かせて台所へと向かって行った。二人でお茶をすることなど殆ど無かったものだから、私も楽しみではあるのだが、如何せん話の内容が内容なだけに、胸が重くなる。どうやって話を切り出そうかとあれこれシミュレーションを行っていれば、ハーブティーとブリオッシュをトレイにのせた侍女が部屋へと戻ってきた。 「それで、ご相談とは……」 「ええと、一緒に住んでる人がね、真夜中に私の顔を覗き込んでいたのだけど──」 自分で話しながら昨日の光景を思い出してしまって、顔に熱が集まったような気がして下を向いた。しかし、グレイグさまとは違って相手の正体を知らない侍女にはほんの少しの情報しか与えられない。侍女は困ったような顔をしてうんと唸った。やはりこのまま侍女に答えを求めるよりも、グレイグさまに聞き直した方が早いと思い、相談を取り消そうとすれば、それよりも先に侍女が立ち上がった。 「ええと、私から深くお聞きするのは、……もうひとり使用人を呼んでも宜しいですか?」 「この話はあまり人に広めたくないのだけども、貴女の信頼する使用人ならば良い、かな」 やはり、やっぱり聞いて貰わなくても良いなんて言えなくて。結局は侍女が信頼できる使用人をもう一人呼んできて貰うことになった。侍女が出て行って直ぐに、私室のドアがノックされた。「はい」と答えれば、若草色の給仕服に身を包んだ一人の使用人が入ってきた。 「あ、アリシア」 アリシアと名を呼んだ彼女も、もう十年以上もこの城に仕えている使用人である。私のお付きではないものの、幼少の頃には何かと世話を焼いて貰った記憶がある……天真爛漫で少し口が滑りやすそうな印象ではあるが、せっかく来てもらったのに断るわけにもいかず、椅子に座らせた。 「名前さま、お呼びでございますか?」 「ええ、少し相談があって……時間があれば一緒に聞いて貰えない?」 「喜んで。それで、如何されました?」 同居人が、夜中に眠っている私の顔を覗き込み、首筋に手をあてていた。彼とは恋人ではなく、あまり親しいとは言えない間柄。二年間、互いのパーソナルスペースに干渉することが無かったものだから、突然のことに驚いている。相手は私のことを良く思っていないかもしれないから、何かあるのではないかと不安になってしまい、こうして相談を持ちかけているのだと。更にグレイグさまに相談したものの「侍女に聞いた方が良い」と言われてしまったことも付け加えた。ひと通りの出来事を話せば、アリシアは今まで相談した二人とは違い、にんまりとしていた。その表情を窺うカノもまた、何処かその表情に納得しているようだった。 「その男性と名前さまはどういった関係でございますの?」 「関係……か」 そう問われて、迷ってしまった。素直に「彼」の正体を明かした方が説明しやすく、それこそ望むべき答えが手に入ると思っていたのだが、まだ話すのは早いと感じて黙っておくことにした。ホメロスさまと私の関係はどのようなものだろうかと想像すれば、それこそ上手く言葉では表せないような難しい関係だった。 「一緒にご飯を食べる関係、かな……友達でもないし恋人でもないし」 「恋人……ではないのですね」 「相手にそういう感情は無いみたいですし、私も一緒に居ることができたらそれで良いので……」 束の間、アリシアが立ち上がった。得意げな表情をしながら、腰に両手を当て、ぐいと私に詰め寄る。 「ああ、成る程。このアリシアには判ってしまいましたわ」 「本当?」 何が判ったと言っているのだろうか、気になってしょうがなくて、思わず私まで立ち上がってしまった。アリシアに詰め寄れば、彼女は人差し指を立てながらニッコリと笑った。 「ズバリです、彼はきっと人肌恋しいのですよ。二年間も名前さまと過ごしていらして指一本触れられぬとは、生殺しのようなものです!」 「は……」 彼女の言葉が予想外すぎて、私の身体は固まってしまった。ホメロスさまが私に対してそのような気持ちを抱いているとは思えないし、何より指一本触れようとしないのは私ではなくホメロスさまの方である。私は断じて、生殺しになどしていない。 「だから、ホメロスさまは私に触れたいなど絶対思っていないはずです!……それに」 「ああ、やはりホメロス将軍でしたか」 「あ……!」 感情に任せて名前を出してしまったと気づいた時にはもう遅かった。まさか、彼のことは絶対透かすまいと思っていた自分がボロを出してしまうとは。己の失態に頭を抱えていれば、一方で二人の使用人は驚くこともせず、何処か納得したような表情をしていたものだから、「隠していたつもりだったのは自分だけだった」ということが判って沈んでしまった。 「はあ……私もうダメかもしれない……」 「名前さま!大丈夫です、このことは絶対に口外しません」 「うん……」 カノが慌てて慰めてくれたが、だからといって落ち込んだ気分は直ぐには戻らなかった。だが、なんとか彼女たちから答えを得ることはできた……果たしてグレイグさまが予想した答えと合致しているかは判らないが、私が脳味噌を絞り切っても出てこなかった答えをいとも簡単に導いたわけだから、一理あるかもしれない。 「ホメロスさまは私に触れたいと思うことは無いだろうけど、……ずっと私と居るから色々と我慢しているかもしれないし、少し話してみようと思う。私のせいで彼が辛いのは、申し訳ないから」 あくまでホメロスさまが私に触れたいと思っている部分は否定するが。ただ、私が居るということで彼の自由度が低下していることは間違いないのだ。 「聞いてくれてありがとう、帰ったら勇気を出して話しかけてみる。このまま、モヤモヤしたまま我慢するのも嫌だから」 二人に礼を述べて、ずっと手をつけていなかったハーブティーを飲み干した。もし私がこのことをホメロスさまに尋ねたことで、もしかしたら更に邪険に扱われることになるかもしれないが、それでも彼が私のせいで辛い思いをしているのならば、身を引くという選択肢も仕方ないことなのかもしれない。もう二年間も、私の我儘に付き合ってくれているのだから。 「あ、あと!……ホメロスさまのことは本当に誰にも言わないで」 「心得ております。……あと、ホメロス将軍は絶対に名前さまを亡き者にしようとはしないかと思いますよ」 部屋を去ろうとする二人に念を押してそう言えば、グレイグさまも仰っていたことと似たようなことを言われてしまった。彼女たちはホメロスさまの所業を知らないからきっとそう言えるのだと、そう思って敢えて返事はしなかった。懊悩する私とは裏腹に、二人は微笑ましいと言わんばかりの表情で……カノに至っては何を考えているのか虚空を見つめながらうっとりしながらティーカップを片付けていた。 これでホメロスさまと仲違いをしてしまったら、二人に報告するのも気不味いなと思いながら、彼にこのことをどう伝えようかと考えていれば、いつの間にか仕事を終える時間になっていた。 もし……私の存在が邪魔だとはっきり言われてしまったら、そう思うと一歩が踏み出せない。だが、そうなるくらいならば、いずれ私たちは決別するのだから。今日のこの選択が自分で自分の首を絞めることになろうとも、結局はホメロスさまと袂を分かつ時が、少しだけ早まるだけだ。 |