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ネルセンの試練C
──長らく使われていなかった看守室の簡易浴槽には、地中を流れ着いた藻類の胞子が聢とこびりついており、石壁に凭れた背中を不愉快な滑りが襲う。井戸水は四肢の末端を痺れさせるほどの冷たさなのにも関わらず、それも気にならない程、私の心は死んでいるように何の感情も働かなかった。身体に沁み付いた死臭を、皮膚が裂けてしまうのではないかというほど強く洗っていれば、ふと浴室のドアの向こうで無機質なノックの音がして、一瞬にして全身が強張る。幾ら身体を清めても、浴室から出てしまえば私はまた汚れてしまう。
此処は地獄だ。大樹は地に落ち、城は魔物の巣窟となり、最早生きている者は私しか居なくなってしまった。イレブンたちも、グレイグさまも、無事で居るかどうかすら判らない。世界は闇に閉ざされ、私の身体は魔物になるその時をただ待ち侘びるのみ。これが夢で、目が覚めれば普段と変わらない日常があって……そんな想像を何度したのかすらも、もう覚えていない。──

喉の奥から何かが込み上げてくるような感覚。嗚咽に耐えるように立ち止まって息を止めれば、剣鬼の斬撃波に襲われ、ぐらりと傾いた身体は反射的に新鮮な空気を吸い込んで再び酷い嘔吐感を生み出す。

「……っ……おえ、……」
「ちょっと!どうしちゃったのよ……!」

シルビアの声が確かに聴こえているはずなのに、彼はこの部屋の何処にも居なかった。目の前には、私を監視するアンデットが運び込んだ生々しい下手物が並んでいる。手の平大の虫が形を保ったまま押し込められている焦げ茶色のスープ、腐った鶏の生首と脚で飾り付けられた毒々しいラグー、極め付けには生のまま塒状に飾られた赤黒い臓物。これは牛や豚か、まさかこの城に居た人間のものかと、考えれば考えるほど私の胃は身体に取り込む空気でさえも強く拒絶する。なんとか右手を動かし、「要らないから取り下げて」と払う動作をすれば、食事係のアンデットは残念そうに肩を落としながら牢から出て行った。

「っはあ……はあ……」

目の前から料理が消えても、それに伴う激烈な腐敗臭は直ぐには消えることはない。私の髪に、衣類に、包まっているシーツにも、死臭が染み込んでいる。せっかく清めた身体も既に汚れてしまっていたが、もう一度湧き水が浴槽を満たすまではまだ時間が掛かる。ベッドに身を投げて、湿ったシーツに包まりながら、夢の世界に落ちるその時をひたすらに待っていれば、突然頭が割れてしまいそうなほどの痛みが襲いかかってきた。あまりの衝撃に言葉もないまま激痛に耐えていれば、混濁する意識の中で聞き覚えのあるような声が反響していて。

「回復が追いつきませんわ!イレブンさま、どうか補助にまわってくださいませ」
「ダメだ、僕が下がったら陣形が崩れる!」

意識は再び夢から現実に引き戻される。嗚咽に耐えかねて地に伏せていた上体を起こせば、揺れる視界の先には剣鬼の斬撃に跳ね飛ばされて宙を舞うイレブンの姿があった。

「い、命の大樹よ、……恵愛に満ちた癒しの風を吹かせ、……我らが身を癒し給え」

大杖を握り、回復魔力を集中させてベホマラーを放てば、意識は再び落ちた。
気がつけば、また暗く閉ざされた地下牢獄の一室に居た。浴室から漂う湿気を含んだシーツに、強く染み込んだ自分の匂いだけが心身を落ち着かせた。此処に居たくない、どうすれば良いのか判らない、意識が完全に恐怖に飲み込まれている。

「ダメだ……私を縛っているものは何……!」

このまま此処に篭っているだけでは、どうにもならないことくらい判っていた。微かに残っている試練の記憶が、「この部屋から逃げろ」と必死に訴えかけてくる。何か、この部屋から出る方法があるのだろうか、囚われた悪夢から抜け出す方法が……。

(これは私の中の恐怖で、私は此処から抜け出さなければならなくて、……)

重い身体を引きずるようにベッドから抜け出した。凹凸の鋭い壁に寄り掛かりながら、宛も無く部屋を歩き回った。乾燥した血液がこびりついた使用人のドレス、湿気で腐食した木の本棚、鮮やかなピンクの液体が入っていた小瓶……あれでもないこれでもないと、この悪夢から脱する鍵を探していれば、ふと伸ばした指先が扉に張られた結界に触れた。結界陣は指先から身体を取り囲んで、バチバチと激しい音を立てて私を拒絶したが、それがかつてほどの衝撃では無かったことに気付いた。確か、前にこの扉に触れた時は、反対側の壁まで弾き飛ばされたはずであったのに。

「なんだ、そういうことだったのね」

結界から腕を引き抜けば、指先に魔力を集中させて地面に魔法陣を描いた。この部屋には杖が無いから、詠唱だけでは強力な魔法を唱えることはできないが、私には先代宮廷魔道士から受け継いだ魔法技術がある――大地に巡る大樹の力を、陣に触れるあらゆる者の力を集合させる術。魔法陣さえ描いてしまえば、私の魔力不足を補いつつ、潜在魔力を要領良く固めることができるのだ。陣を描き、四大精霊を呼び寄せる式を描けば、六芒星の中心に手のひらを宛てがった。

「これは試練、問われているのは自身を脅かす恐怖を撃ち破る力……!ならば私を縛り付けているものは、あの禍々しい結界!大地を巡る大樹の光よ、その力を我が手に――ギガデイン!」

刹那、瘴気に満ちた空気を一筋の稲妻が引き裂いた。目が眩むほどの白い光が部屋全体を包み、咄嗟に両手を交差させて顔を覆う。……それから数秒、時が経っただろうか。ゆっくりと目を開けば、私を取り囲む景色は無機質な石の部屋ではなく、豪華絢爛な燭台の間であった。私は漸く元の世界に戻ることができたのだ。

「……解けた!」

私の身を包むものは血に塗れたドレスではなく、侍女がデザインしたモノトーンな戦闘服。手にはデルカダールの宮廷魔道士であることを示す大杖が確かに握られていた。もう自分を脅かすものは存在しない……あとはイレブンたちと力を合わせて剣鬼を倒せば、ネルセンの課した試練を乗り越えることができるだろう。

「あなたはゾルデじゃない、ただのまやかし……そうでしょ」

助走をつけて後衛を抜け、剣鬼へ向かって火炎呪文を放つ。目の前に居る傀儡は私の言葉に答えることはなく、炎に包まれながらも怯むことなく剣を振り下ろした。杖の先でその斬撃を受け流せば、前衛で攻撃を受けていたグレイグさまの隣へと立って再び杖を構える。

「戻りました、ご迷惑をお掛けしました」
「漸く帰ってきたな、奴の力も弱まったようだ……形成逆転といこうか」

先程の攻撃から見ても、敵の力は明らかに私たちで処理できる程度であった。敵はそれ自身が私を脅かす恐怖で造られていた訳だから、私が悪夢を打ち破ったことによってその力が弱まったことに間違いないだろう。剣鬼が作り出していた分身も消えたことで、息を整える間も無いくらい繰り出されていた斬撃は漸く止み、私たちも体制を立て直すことができるようになった。

「大地の精霊よ、我が身体にあらゆる斬撃を跳ね返す鋼鉄の鎧を纏わせよ──アタックカンタ」

ここぞとばかりに、二年の間に研究した古代呪文を唱えれば、私の身体を光の壁が包み込む。魔法を跳ね返す壁を作り出す術があるように、古代の叡智が募った古代図書館には斬撃を跳ね返す壁を作り出す術に関して記してある書物があった。物理で戦闘を熟すタイプの敵に対して非常に役立つだろうと思い、魔道書を読み込み習得したのだが、まさか直ぐ唱える時が来るとは思っていなかった。
同じく前衛で剣鬼の攻撃を受けていた姫さま、グレイグさま、イレブンにも同じ術を施せば、杖の先に氷を纏い紫色に光る右目を突いた。攻撃の手段を失うだけでなく、反射した斬撃が剣鬼の身体を襲い、闇に包まれたその影はやがて力尽きたように地に伏せて空気に溶けるように消えていった。

「見事だ、よくぞ我が試練を果たした」

後ろに控えていたネルセンの言葉に安心した拍子に、身体の力が抜けてしまい地面にへたり込んだ。思えば、精神的にも魔力的にも限界だった。ベホマラーを唱えた上に、ギガデイン、アタックカンタを四回も唱えたのだ。二年前はギガデインを一発唱えるだけでも直ぐ限界を迎えていたというのに……。ここまで成長できたのは二年間の魔法コントロールの成果もあるかもしれないが、やはりネルセンの課した試練の影響が多いように思う。試練の前に彼が言った「何物にも負けない強さを手に入れるだろう」という言葉は大袈裟にも聞こえたが、案外的を射ていたのだな。