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「#幼馴染」のBL小説を読む
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閑話
はじまりは、ただの気紛れだったのかもしれない。麦畑のざわめく真夜中に、暗闇に閉ざされた部屋の中で瞼を開けた。仕切りのこちら側に窓は無いから、一度ダイニングへ抜けて、玄関のドアを開けて月を見上げる。上弦の月が山の端に隠れるようにしてこちらを見ていた。眠りに就いてから、さほど時間が経っていないようだった。
もう一度ベッドに戻り、目を閉じれば、ふと布一枚で隔たれた向こう側から小さい音がひとつ飛んできた。なかなか聞こえづらく、やけに耳障りなこの音に寝付こうにも寝付けず。眉を顰めながら、カーテンをそっと捲った。雑音の正体は名前の寝言だった。半開きになった口からは、呪文のように言葉が零れ落ちている。しかし、この距離でそれらを聞き取ることはできなかった。

普段ならば、それらさえも無視してベッドに入る筈だったのだが。何故か、身体は吸い込まれるように彼女の「私室」へと向かっていた。己の脚が、鉛のように重くなる。名前が起きてしまうのではないか、こうして夜這い紛いのことをしようとしている所を見られてしまうのではないかという懸念とは裏腹に、どこか無意識のうちに彼女の元へ向かう自分が居た。
薄い月光に照らされた桃色の唇に、吐息が触れて微動する。水分を良く含んだ、潤いのあるそれを、気が付けば穴が開くほど見つめていた。今日の自分は何かが可笑しい。いや、気のせいだろうか。偶々、彼女に興味を持っただけかもしれない。珍しく体調を崩し、弱々しい姿を曝け出している名前の、普段と異なる一面に煽られたのだろうか。青白い月光に反射した頬は、未だ火照っているようだった。

「……ううっ」

時折苦しそうに顔を歪ませて、喘ぐような息を吐き出す。彼女はいま、どのような悪夢に魘されているのだろうか。

「っはあ、はあ……」

思い出しているのはきっと、過去の禍々しい記憶であろう。その中心にいるのは、紛れもない自分自身だ。

だからこそ、今迄迷っていたのかもしれない。自分が彼女に触れても良いのか、否かを。
私を救うという責務に囚われているあまり、目の前が見えなくなっているのだろう。潜在意識の何処かで嫌っている私に、無理やり笑顔を見せているに違いない。──そのような懸念をしてしまえば最後、いつの間にか彼女に触れることを躊躇っていた。

彼女を此処に置くと決めた理由は何だったか。将軍という地位を失った自分を、一度は魔に魂を売りかけた自分のことを、愛していると言い放った名前。そんな彼女のことを理解したかったからこそ、傍に置いたのだった。城に居る時と変わらず、彼女は私の私室には一歩も踏み込んでこなければ、何かを強請ったり文句を言ったりすることも無い。少し強引な一面はあろうとも、それでも共に過ごすには何も不自由無い。
だがあれから、彼女との関係は平行線を辿っているようだった。理由は明白だ、私が彼女へ触れることを拒んでいたからに他ならない。十六の、純粋無垢な彼女を悪戯で弄んでいた己は果たして何処に行ってしまったのやら。自分自身に酷く呆れてしまう。

だが、このような夜中に起きたお陰で、己の抱えていたものが見えたような気がした。普段は目を覚ますことが無い時間帯、このような真夜中に目が覚めたことには何か意味があるのかもしれない。

「酷く魘されているな」

険しい表情を見せる眉間にそっと指を這わせれば、彼女は一瞬だけ目をきつく瞑った後、穏やかな寝息を立て始めた。露出している肌が陶器のように透き通って映っているのは、薄ら雲に隠された弱々しい月光の所為だろうか。二度の時渡りに幾年を費やし、普段は年相応の娘たちよりも大人びた表情を浮かべている彼女でも、眠っている時の顔は未だあどけなさが残っている。

ほんの気紛れで喉をつつけば、名前は小さな声を上げた。彼女以外の人と拘わらずに暫く過ごしたが、己の中に植え付けられた嗜虐は簡単に消えることは無かったようだ。背中がぞくりと震える。彼女がいつになく美しく、儚く、そして壊れやすく見えて仕方が無かった。己を抑えるように何度か唾を飲んだが、衝動が治まることはない。薄く開かれた唇に、吸い付くように己のものを合わせれば、名前は艶めかしい声を上げた。これでは流石に目を覚ましてしまっただろうか。彼女の顔を見つめていれば、長い睫毛が小さく動いた。細い首に指を這わせれば、やがて名前はごくりとつばを飲み込んだ。目を覚ましている証拠だ。彼女は、月光に照らされた愛する者の姿を見て、一体どのような感情を抱いているのだろうか。